「環境」を選ぶ主体性
私は現在38歳なのですが、この歳になってようやくわかってきたのが、「主体的」や「主体性」の価値です。世の中の成功者や幸福者を観察すれば、この「主体的」や「主体性」を感じる面が非常に多くあります。
例えば好きな仕事に就いている、好きなことを趣味にしている、好きな家族がいる、好きな友達との時間を大切にしている・・等々。
共通項はやはり「好き」という二文字。
この「好き」を大切にし、「好き」に素直に向かっていく言動を私は「主体的」とか「主体性」「主体性の発揮」と定義付けます。(あくまで私の定義付けです)
陽明学者・思想家・哲学者で「平成」の元号の考案者でもある安岡正篤氏に次の言葉があります。
「多逢聖因(たほうしょういん) 縁尋機妙(えんじんきみょう)」
多逢聖因(たほうしょういん)は "いい人に交わっていると良い結果に恵まれる" という意味。
縁尋機妙(えんじんきみょう)は、"よい縁がさらによい縁を尋ねて発展していく様は誠に妙(たえ)なるものがある" という意味。
この2つの意味から "人間はできるだけ、いい機会、いい場所、いい人、いい書物に会うことを考えなければならない" という教えです。
安岡正篤氏は昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた大人物。その大人物が環境を選ぶ大切さを説かれる点は見逃せません。
安岡正篤氏
経営コンサルタントで著名の大前研一さんにも環境選択を重視した名言があります。
『人間が変わる方法は3つしかない。
1番目は時間配分を変える。
2番目は住む場所を変える。
3番目は付き合う人を変える。
この3つの要素でしか人間は変わらない。
最も無意味なのは「決意を新たにする」ことだ』
この2番目と3番目が広義で「環境」と言えるでしょう。
ところで「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉があります。本来の意味は文字通りではないみたいですが、ここでは文字通りの意味で進めます。文字通りに解釈すると "健康な肉体があってこそ、気持ちも考えも健やかに保つ" となります。逆から言えば "体調不良・ケガ・病気だと、気持ちも健やかに保ちにくい" ということ。
あなたはこの考えに賛成ですか?
私は賛成です。睡眠不足や頭痛等では気持ちが晴れません。やはり快調、快適であってこそ、気持ちも晴れるというもの。しかし昭和の哲人・中村天風氏は言われます。
「たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい」
確かにごもっともで、実際に病気や悲運のときは、お言葉通り心を前向きに強く保ちたいものです。しかしわざわざ病気やケガ、悲運を願う人はいません。それと同様、わざわざ環境を選ばずに「環境を選べば得られる成果」を求める必要はないと考えます。私の本記事で申し上げたいのはその1点に限ります。
病気になってしまったら、そこから治す以外に方法はありません。環境も変えられないのであれば、その環境下でできることをするしかありません。しかし環境を変えられるのであれば、環境の力を利用(活用)し、成果を求めることが得策ではないか? なのに環境を選ばず、芳しくない環境下で努力をするのですか? ということです。
以前の記事でも申し上げましたが、病気になってからの努力と、平時の予防に対しての努力では、同じ努力でも効果が2倍・3倍、いや10倍・20倍違います。それと同様、芳しくない環境下での努力と、最適な環境下での努力では、効果の出は何十倍も違ってきます。そもそも芳しくない環境下では継続すらままなりません。
私は4年前に職住接近のため引っ越しをしました。最近は美容と健康、ファッションに気をつけています。休日も別の仕事で人と会うのですが、気に入ったファッションのときはやはり自信が違います。相手のリアクションの有無に関係なく、自分の前向きさ、晴れやかさが違うのです。何気に会っているだけでも、会うのが楽しく、会話にハリが出る、そんな感じです。
「環境」といっても身近から面倒なことまで大小さまざま、ジャンル(種類)もさまざまです。できるところから着手されることをお勧めします。人間は文明の利器(道具)に頼って生き延びてきました。逆に言えば文明の利器(道具)があったからこそ生き延びられた ということ。私たちの仕事もそろばんを使う人はいません。電卓も怪しいです。エクセルも古いと言われる時代は近づきます。わざわざ足を運ぶよりネットやYouTubeで完結したい人は大勢います。
最後になぜ私が「環境」を選ぶことをお勧めするか?
それは「人間は朱に交われば赤くなる」という「性弱説」に集約されます。
あの「誰にも負けない努力」を謳われる稲盛和夫氏(京セラ創業者)ですら「性弱説」を唱え、自覚されます。格闘技の世界でも「弱さを認めるところから、強さが始まる」と言われます。精神論一辺倒の人は結果に責任を持ちません。会計処理をするのに、会計ソフトを使わずにそろばん、電卓で頑張りますか? 真冬にタンクトップ一枚で外に出ますか? 自動洗濯機を使わずに手洗いをしますか?
仕事だけでなく人生においても(最終的には)結果責任を問われます。環境を選んでおけば得られたであろう結果は、巻き戻せません。(例えば大学時代に留学しておけばよかった・・等)。大学時代には大学時代にしかできないことがあるのに、アルバイトの思い出しかないというのは寂しい限りです。(何を隠そう私がその1人。痛烈に後悔します(/ω\) )
ぜひあなたの思う良い環境に染まってください。人間は服や道具がないと生きられないのと同様、環境に頼る「性弱説」の存在です。それを踏まえ主体的に環境を活用できる人こそ成功者で幸福者で ゆえに「他を助けられる人」になります。人間の弱さを自覚することから人間の強さが始まることをもう一度噛みしめましょう。
「多逢聖因(たほうしょういん) 縁尋機妙(えんじんきみょう)」
by 安岡正篤
(人間はできるだけ、いい機会、いい場所、いい人、いい書物に会うことを考えなければならない)
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。