寓話「谷底の神父」
あなたは「谷底に神父」という寓話をご存じですか? 先日読んだ杉本宏之さん著「たとえば、謙虚に愚直なことを継続するという習慣」に紹介されましたので、あなたにもシェアしたいと思い、ご紹介します。ちなみに杉本さんは株式会社シーラホールディングスの取締役会長で、サイバーエージェントの藤田晋社長や堀江貴文さんらと親交の深い方です。
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ある谷底に教会がありました。
その教会の神父さんは、何十年もその地域のために、毎日お祈りを捧げていました。
ある時、何百年に一度の大洪水が起こりました。どんどん水があふれてきます。
村人が教会にやってきてこう言いました。
「神父さん、早く逃げましょう。山の方に行けば助かります」
しかし神父さんは言います。
「大丈夫です。私はずっと神様を信じていますから、絶対に奇跡が起こります。」
そう言って谷底に残り、お祈りを捧げます。
ところが、洪水の水は一向に引く気配がありません。ついに水が教会の敷地内にまで入ってきました。するとボートに乗った村人が教会にやってきて また言います。
「神父さん危ないです。このボートに乗って逃げましょう」
神父さんは言います。
「いや大丈夫です。必ず神様が助けに来てくれますから心配しないでください」
依然として屋根の上でお祈りを捧げます。
いよいよ水が屋根にまで上がってきました。神父さんは屋根の先端の十字架の上まで昇って、お祈りを続けました。今度は、村人がヘリコプターに乗って、神父さんを助けに来ました。縄ばしごを垂らして、神父さんに言います。
「神父さん、死んでしまうから、はしごにつかまって下さい。本当に助けたいのです」そう懇願します。
しかし、神父さんは言います。
「大丈夫です。今はこういう状態ですが、必ず神様が助けてくれます」
そう言って、村人の助けを断ります。
結局神父さんは洪水に呑まれ死んでしまいました。
神父さんは何十年もお祈りを捧げていたので、天国に行けることになったのですが、天国の入り口で神様に質問します。
「私は神様のためにお祈りをしてきたのに、どうして助からなかったのでしょうか?」
すると神様は答えました。
「3回も助けをやったじゃないか」
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あなたはこの寓話の教訓をなんだと思われますか?
神父に何が足りなかったのでしょうか?
私はこう考えます。
「人間は基本的に環境(機会)しか与えられない」
神父の祈りは届けられた、となっていますが、祈っていなくても同じ環境(機会)は与えられるでしょう。そのときに必要なのは自分の命(人生)は自分で守るという主体的姿勢、主体的行為です。神父にはそれがありませんでした。
おそらくこの神父は「洪水が止むこと(またはそれに類すること)」を神のご加護と思い込んでいたのだと思います。神が洪水を止めてくれると・・・。
日本においても宗教を信じる人は大勢います。祈る人も大勢いるでしょう。祈ることで自身の心の平安が保たれるのでしたら、祈りはとても効果的です。もっといえば瞑想と同様推奨されるべきものとも言えます。
しかし祈りはあくまで精神世界の話。現実は「行動」がすべてです。ですから「行動」のための祈りでなくては本質を見誤ります。あなたが歩道を歩いていて、向こうから自転車が走ってきたら、通常は避けます。天災も同様で、人事を尽くせるかぎり、私たちは自分の身を守らなければなりません。
人生も同様でしょう。
祈りが届けられようと、届けられまいと、私たちは環境(機会)しか与えられません。その環境(機会)に能動的姿勢、能動的行為を示すか否かが、私たちの人生を決定づけます。そのための人生、そのための人間です。
繰り返します。
この寓話で天災だけでなく、恋愛も家族も仕事も勉強も趣味も、種々の人間関係もすべてに通ずる教訓が指し示されます。それを私は「人間は基本的に環境(機会)しか与えられない」と読み取りました。
あなたはいかがお感じになりますか?
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
引用・参考文献