心の戦士!~心が前向きになる言葉~

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「自分に勝つ」とは?

スポーツ選手やチームの優勝に導いた監督などに、その功績の理由を伺うと、決まって「自分に勝てるかどうか」といった話が出ます。それは昔も今も同じです。これからも少なからず同じなのでしょう。

 

では「自分に勝つ」とはどういうことか?

 

私は「今日の自分に勝つ」ことだと思います。もう一度申しあげます。

 

「今日の自分に勝つ」

 

この「今日の自分」というところがポイントです。人はなぜか目の前にいる自分に負けていながら、明日を夢見ます。私のように40代ならもうわかっているはず。「明日はなく、今日しかない」ということに。

 

存在しない明日を夢見ては、目の前の対象から目を反らす。「明日やればいい症候群」です。明日などありません。人生は一にも二にも「今日」しか存在しません。このことを深く理解し、イヤでも今日に打ち勝つということが大事です。

 

しかし私は「大そうな夢実現」の話をしているのではありません。私はただの会社員です。自分なりに仕事も人生も頑張っているかもしれませんが、人は人、自分は自分です。どんな人であれ、仕事に向かいたい人もいれば、プライベートや趣味に向かいたい人もいます。身近なことを対象に、「理想的な自分づくり」に「自分に勝つ」を実践していただきたいと思います。

 

本日申し上げたい点は、ただの一つ。

 

「今日」

 

そうです、「自分に勝つ」とは「今日の自分に勝つ」こと以外にあり得ません。「今日」が都合よく抜けるから、みな習慣化も何かへのアタックも、はたまた「断つ」ことも中座してしまうのです。

 

冒頭のスポーツ選手などの功績は、すべて今日に打ち勝った自分の連続がなしたもの。今日に打ち勝てれば、明日も打ち勝てられる可能性が高まります。そうやって明日への可能性を高めながら今日の自分に勝つ負担を軽減し、連続を可能とします。

 

私などは凡人の凡人です。それでも美容や健康には気を使いたいですし、遊びや趣味も楽しみたいです。そのためには、いつも気持ちのいい自分と向き合いたく、そのためにさまざまなルールを日常に課し、その達成にいそしみます。ストイックというと聞こえはよくないですが、実はストイックな人は自分の満足という観点から、非常に幸福になりやすいです。私はどちらかといえばストイック型で、そのストイックがあれば、他のことはどうでもよくなります。人からの評価よりも自分のストイックの方が大事だと思えるからです。

 

いろいろと書きましたが、言いたいことは一つ。

自分に勝つとは、「今日の自分」に勝つことを指す。

それを意識しないと、多かれ少なかれ、理想の自分は未達のままです。

達成という名の幸福は、さまざまある幸福の中でも、中心的存在かもしれません。

 

あなたはいかがお感じになりますか?

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

 

「習慣化」とは具体的になんだろう?

よく「習慣が大事」とか、「習慣化のコツ」などと言われたりします。あなたは日々の習慣に着目したことはありますか?またいつもの習慣を改めようと思ったことはありますか?それはどんなことですか?

 

いま頭に浮かんだことを念頭に、私のお話をお聞きいただければと思います。

まず参考として、私が習慣化している一例を簡単に書き出します。

 

1.毎朝シャワーを浴びて歯磨きをした後、えごま油とエクストラバージンオリーブオイルをそのまま摂取する。

 

2.1.のあと、緑茶を飲む。

 

3.2.のときに同時にサプリメントを数種類服用する。

 

4.夜、お風呂に入りながら、フルーツを約4種類食べる。

 

などです。

 

他にも細かいことを上げればいくつかありますが、私の習慣内容を紹介するのが主旨ではありません。では表題に戻り、習慣化とは具体的にどういうことなのでしょうか。

 

それは原則「同じ時間に、同じ場所で、同じことをやる」ことです。わかりやすいですよね?このように具体化しないと実行や継続はままなりません。そしてもう一つワードを付け加えましょう。

「同じ時間に、同じ場所で、同じことを、死んだ気になってやる」です。人は決めたことなどできないに等しいです。そして「できない言い訳や理由」を探し回ります。実際にこれが現実です。ではなぜできないか?それは「楽しい」とか「やりがい」という感情を求めるからです。よく「楽しくなければ続かない」と言われ、できるだけ楽しくなる仕組みづくりが推奨されますが、現実問題どうでしょうか。

 

それだったら「死んだ気になってやる」ほうが現実的です。新しい習慣化に真っ向から立ち向かうためには、やらない理由を排除する以外、方法はありません。無論、今までの習慣に紐づけるというテクニックは有効です。それらのテクニックを踏まえたうえで、「死んだ気になってやる」です。

 

「同じ時間に、同じ場所で、同じことを、死んだ気になってやる」の中で、「同じ時間」は、守れなければ守れなくてもかまいません。忙しい現代社会で「同じ時間」まで縛ってしまうと逆効果になりかねません。また「同じ場所」も、守れなくてかまいません。例えばサプリや薬を飲むことに、同じ時間に摂取するように意識することは重要です。それを「同じ場所」まで縛ってしまうと柔軟性を失います。

 

ということで、できるだけ「同じ時間に、同じ場所で、同じことをやる」ことを意識したうえで、柔軟性を持ち合わせほしいということです。

 

さて話を戻しましょう。どれだけ「やる」ことにたどり着いても、その「やる」ことが苦痛だったり面倒だったり面白くないときはどうするか。そうです、「死んだ気になってやる」でした。「死んだ気になってやる」というのは、字のごとく、一切の感情を排し、形から入ってやり切ることをいいます。ぜったいに「やる」ことを予定から外さず、優先順位の最上段にもってくることです。「やる」ことを忘れてもいけないし、実際にやり遂げなければなりません。だから「死んだ気」なのです。

 

何事もスモールステップ。小さなことから確実にこなし、少しずつ習慣対象のハードルを上げていきます。

 

最後になぜ私が「死んだ気になってやる」をお勧めするか?それは「まったく後悔しない」からです。実際にやり切った後は、「清々しさ」や「達成感」に満ち溢れ、「やってよかった」感情しか生まれません。自分が何かしら「価値あり」と思った対象だから「やろう」としたわけで、それをやって後悔するわけがありません。そしていっときの感情に負けなかった自分が誇らしく思えます。しかしやる前は怖気づきます。やらなくていい理由が頭をもたげます。それに打ち勝とうとするかどうか。だから「死んだ気」なのです。

 

甘っちょろいことを言って現状のままでいいか、

それとも、

誰にも褒めらず、認められなくても、自分に手ごたえを感じるほうがいいか。

 

後者のほうが、逞しい未来を現実のものにできると思います。

 

「習慣化」とは具体的になんだろう?

「同じ時間に、同じ場所で、同じことを、死んだ気になってやる」です。結局プロセスはさておき、習慣を形成できなかった人より、死んだ気になって習慣を形成した人のほうが幸せだと思います。

 

あなたはいかがお感じになりますか?

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

私たちの正体とストレス撃退法

昭和の哲人と呼ばれ、昭和の時代に思想家・哲学者として活躍された中村天風氏は、その思想を広めようと「天風会(公益財団法人)」を設立しました。思想といっても具体的には「心身統一法」と呼ばれ、姿勢や言葉遣いなど、いかに積極的な人間になれるかをさまざまな視点で実践するというもの。活動は今もなお続けられています。

 

そんな中村天風氏の教えは、私の「人間づくり」においても非常に励みになっていることしばしばです。本日は私が感銘を受けた教えの一つをピックアップしてお届けします。

 

それは「病は気から」です。

 

天風氏は「病(やまい)」と「病気」を明確に峻別されています。「病」というのは字のごとくその状態を指し、「病気」というのはその病を気にし、マイナスな感情を持ってしまう消極的態度を指しあます。

 

天風氏からして「病」はなんら問題としてません。実際にそうなってしまったのだから仕方ありません。しかしそれを気にして心や気持ちを病ませることがいけないと喝破されているのです。なぜなら気にしていいことはないからです。もちろん薬を飲むとかリハビリをするといった行為は「気にする」に含めません。ここでの「気にする」は、気にして消極的になってしまう気持ちの状態とご理解ください。

 

大半の人は病気になれば気は病みます。"なんで自分だけ"と恨めしく思う人も多いはず。しかし天風氏は消極的態度は治る病も治らなくさせる、人間にとって一番もってはいけない感情と言われます。

 

確かに理屈としてはわかります。しかし消極的になってしまうのがいけないなら、どうしたら積極的になれるのでしょう?

 

それが「氣」の存在です。

 

人間は心でも肉体でもなく、「氣」であると天風氏は断言されます。つまり肉体に病が走ったならそれはそれで仕方がない。しかしあくまで「自分」というのは、大根大本は「氣」の分派なのだから、「氣」の受け入れ口を塞ぐような感情は、一切排除しろというのがその心です。

 

もう少しわかりやすく解説します。

 

宇宙は「氣」からできており、その「氣」の分派が私たち人間であるという理解です。その病を治すのは原則「氣」であり、いかに宇宙のしくみそのものである「氣」を自分に流入させるかが治す速度や有無を決めるということ。

 

別の言い方で言えば、自分は「氣」の分派なのだから、もともとは「氣」です。その「氣」をしっかり発揮させるよう、日々に努める行為が心身統一法というわけです。

 

心が感謝ややる気に満ちれば、宇宙そのものの「氣」と自分の「氣」が一となり、みるみる心も体も回復の一途を辿ります。しかし心が塞げば、字のごとく「氣」の流入も塞ぐことになり、宇宙の「氣」と自分の「氣」が一体となりません。

 

そこで言葉を使って自分の心を強く持とうとするわけですが、私はまず自分の本源は「氣」であると理解することが大事と心得ます。言葉はその次で、自分の存在価値が「氣」との一体であると深く理解しないことには、どんな言葉をつぶやいてもおそらく意味がありません。

 

これは実は「運命」もまったく同じこと。「運命」というのは、天風氏が使われた言葉で、人生といった意味合いです。私たちが普段感じている日常や人生と置きかえてもらってかまいません。人から何かを言われて傷ついたりストレスを感じても、それは心が感じただけで、「氣」は関係ありません。しかし心をそのままにしておくと、宇宙の「氣」の流入口は閉ざしたままになります。

 

いったんおさらいしましょう。天風哲学は宇宙の氣と分派である我々の氣は一(いつ)であるものの、心が関所のように開けたり閉めたりを担います。心が積極的あれば氣は散りません。宇宙の氣がどんどん流入します。逆に心が消極的であれば、氣は散ります。宇宙の氣が入ってきません。心が塞ぐというのはかくも怖いこと。

 

では具体的にどうしたらいいか。

 

それには第三者意識を持ちましょう。あたかも第三者のように自分を眺めるのです。そして励まし、広く長い視点で今をとらえるのです。人からのストレスや、何かのコンプレックスなど人の悩みはつきません。しかし悩んでいるのは氣ではありません。私やあなたが氣なのです。そこを混同してはいけなく、いっときの心や気持ちが沈もうとも、「自分は氣なのだ」という認識を強く持ち、心に捉われない第三者意識をもって現実を生きましょう。それが本当に一番大事なことです。

 

心は放っておき、自分は氣なのだと、氣である認識から(逆に)心を積極的にするのです。天風哲学はかくも深く実践的な内容なのです

 

私たちの正体とストレス撃退法

 

私たちに、病や心にとらわれている時間はありません。威勢のいい言葉を吐き、病や運命にも負けない氣の煥発を主軸に今日を雄々しく生き切りましょう。

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本当にちょっとずつ

私は2018年ごろから薄毛治療をしています。それを綴ったブログもサブブログ「私の育毛体験記」として挙げています。なかなか更新はできていませんが、リアルな育毛体験記のためぜひ参考にお読みいただければと思います。

 

さてその「私の育毛体験記」では見事なまでの復活劇を書いていますが、世の中そんなにうまいことは続きません。昨年秋?から私は側頭部が薄くなっていることに気づきました。AGAでは通常側頭部は薄くなりません。薄くなるのは頭頂部か前頭部です。ネットで調べても原因は「目の疲れや甲状腺の病気などからくる」といったことくらいで、何が自分に該当しているのかがわかりませんでした。

 

しかしもしかしたら「目の疲れかもしれない」と急に思い立ち、年末に眼鏡を買いに行き、年始から眼鏡生活を始めました。それから約10ヵ月が経ちます、今思えばおそらく目の疲れが原因の一つであったことは間違いありません。なぜなら眼鏡生活を始めてから確かに徐々に側頭部の薄さが改善したからです。(本当はICLがよかったのですが、私はレーシックを受けているのでICLは不可と言われ、眼鏡にしました)

 

視力が低下していたにもかかわらず数十年に渡り裸眼で過ごしたのですから、眼が酷使され、それがもともと薄毛になりやすい私の頭皮環境にダイレクトに悪影響を及ぼしたものと推測します。薄毛になりやすい人は、ホルモンや血流レベルですでにそうなっているわけなので、そこに目の疲れが蓄積されればますます悪化するのは当然です。

 

それをホルモンや血流レベルで薄毛とは縁遠い人が何を言ってもリアリティがありません。縁遠い人は食生活がどれだけ乱れようが、洗髪をしなかろうが、薄毛にはなりません。毛髪サイクルを乱したり短くするホルモンが分泌されないのですから当然です。

 

話が脱線しました。戻して続けます。側頭部の薄さが改善しかけた頃に、またやっかいな問題が生じました。それが前髪の薄毛です。具体的には前髪の中央右あたりに10円玉くらいのハゲがみるみる起きたのです。日に日に薄くなり、もう誰が見ても、ふつうに10円ハゲとわかる見た目です。しかし実際は俗に言う10円ハゲではなくふつうに老化というか薄毛の進行で10円レベルのハゲができただけです。今後にもっとその半径は広がる流れで、前髪が薄い人やない人を想像してみてください。誰もが小さい範囲から始まったはずです。

 

「せっかく側頭部が改善しかけたのに、今度は前髪か~」と嘆きに嘆きましたが、それでも希望はありました。それがリアップの成分で有名な「ミノキシジル」です。私はAGA治療の内服はしていますが、外用はしていません。それを5月から始めたわけです。私は個人輸入で濃度15%のものを使いましたが、5%では効果に4ヵ月かかると言われます。では私は10月現在、どうなったでしょうか。

 

なんとか改善が見られました。ようやく4か月後になってからです。それまでの4か月間は本当に10円ハゲをどう隠すかで頭がいっぱいでした。周囲にはバレてたと思いますが、私の中では希望の灯は絶やさず、隠しながらその日が来ることを願ってました。

 

9月下旬からなんとなく改善したように思い始め、10月になってからは完全に目視レベルで改善が現れました。しかし完全に復活したわけではなく、改善が明確化したというだけです。本日のタイトルの意図は、側頭部の薄毛から始まり、今年の10か月間の辛抱と希望の保持は決して無駄ではなかったという率直な感想です。

 

「本当にちょっとずつ」

 

投資も勉強も何もかも、ちょっとずつに成果があらわれるのが健全です。自然現象というのはそういうものではないでしょうか。いっぺんに成果となるのは相当なリスクが伴います。10階建ての屋上にエレベーターが使えないとき、階段で一段一段登ります。いっぺんい階段を駆け上がる人がいるでしょうか。相当鍛えている人ならまだしも、普通の人が取る手段ではありません。それが100階建てだったら言わずもがなです。

 

まして薄毛は進行性。エスカレーターで言えば下りです。下りエスカレーターに乗りながら、上を目指さないと行けない状態といえばわかりやすいです。薄毛の進行を止めるだけでも上出来なところを、改善までもってくという所業。

 

それでも可能性がある限り地道にやります。「悪化の方への進行性」以外のジャンルでも同じように考えてください。受験生の偏差値向上。今男性でも流行りの脱毛スキンケア。社内での出世。気になる人へのアプローチ。

 

地道にコツコツやっていくことは、本当にたいへんです。なぜなら成果が目に見えないからです。それでも先の「ミノキシジル」の外用なら4ヵ月が相場。シミのケアならもっとでしょう。コツコツやっていること自体に自分を褒められなければ、やってられません。だから自分をほめてください。自分で自分を褒めることはもはや努力です。

 

何かの対象にガムシャラになることだけが努力ではありません。自分をきちんと褒められることが最大の努力です。人間関係はいつか様変わりします。いつも「ついて回る」のは自分だけ。自分が自分を褒めないでどうやって幸福を感じるのでしょう。

 

「本当にちょっとずつ」

 

成果を焦らないでください。やっていることを褒めてください。そしてきちんと続けてください。続けたことを数値化して褒めてください。

 

ぜひあなたの健闘をお祈りします。

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

律には知を「ストア派哲学」

人生を創る秘訣は、おそらく次のことを実践できるかどうかで分かれます。

 

「自分でコントロールできることとできないことを明確に区別し感情を律せられるかどうか」

 

無論、感情を律せられる人が人生を創っていけます。

 

言葉で書くと簡単なことですが、「わかるとできる」は違います。誰だってダイエットの理論はわかってます。筋トレや運動の必要性もわかってます。しかしほとんどの人はわかってもできません。ですから上記の内容もわかったところで意味がありません。

 

ではなぜ私は書くのか?

 

それはまず上記のことをさまざまな著作に著わした人が誰なのか、から見ていきます。それは2017年に亡くなられた元上智大学名誉教授・渡部昇一さんです。渡部さんといえば歴史から人生論まで何百冊と上梓された方で、専門は英文学者。渡部さんの何が偉大かというと、専門外の博識が深いことです。専門の英語学が深くても、正直学者の域は出ません。ですが歴史や古典、人生論まで深いとなると、学者の域を超えた知の巨人に向かいます。すさまじい関心と理解力、またそれらのアウトプット力のすべてが圧巻です。

 

では渡部さんは「自分でコントロールできることとできないことの区別」をどう著わしているか。それが「知」です。

 

「知」を働かせることで、コントロールが容易になるというのです。これは斬新かつ有益なこと。感情をセーブできない理由は、「知」の働かせ方が甘かったからです。

 

もともと自分でコントロールできることとできないことの重要性を説いたのは、ストア派哲学の代表的人物・エピクテトスと言われます。時代は西暦50年ごろ。そのエピクテトスの重要性を焼きまわししたのが「幸福論」の著作で有名なカール・ヒルティ1833年~1909年)と言われます。そしてその思想・哲学の重要性を日本にもたらしたのが渡部さん。

 

「知」を働かせるとは、自分の人生に対しての信念を明確にするということ。例えば自分の信念に「人には負けていい、しかし自分には負けない」を置いたとします。その人は、人に負けることは明確にあきらめています。そのあきらめがストレスを回避し、自分のできることに向かわせます。これと同じことです。人の評価や言動はコントロールできません。起こったことはどうしようもないのです。まだ起こっていないことに着目し行動を考えることを「人生」というのです。

 

気持ちや感情の上下じたいはコントロールできませんが、「知」をもって切り替えることはできます。この切り替えに「知」が重要となります。「知」とは自分でコントロールできることとできないことに、明確に線を引く注意力のことです。

 

明日の天気予報は100%大雨だとします。私たちに天気はコントロールできません。しかし始終大雨を恨み、"なんでなんだ⁉"と嘆く人は本当に大勢います。バカみたいと思われるかもしれませんが、同じようなことをしている人がどれだけいるかです。そもそも人をコントロールできると思うこと自体が傲慢です。また「~すべき」「~すべし」と考えることもおこがましいこと。人には人の数だけバックグラウンドがあり先祖があります。何がどう作用してそうなっているかはわかりませんが、そんなことはどうでもいいのです。「人は人、人はコントロールできない」、これだけシンプルに理解しておけば知は瞬時に働かせられます。

 

私が最初にこのストア派哲学の考え方を知ったとき、何が一番斬新に感じたかというと、感情や気持ちより「知」が大事ということです。人が「今」を生きられないとき、往々にして感情が邪魔をしています。その感情をコントロールするのは、肉体的アプローチです。作業興奮といって体を動かしたり他のことに着手すれば、自然とその対象に気持ちも移るというもの。しかしその手前の概念・認識に「知」があれば、もはや肉体的アプローチすら不要となります。先の「人に負けることはどうでもいい、自分に負けないことが大事」の信念といっしょです。

 

「意志は感情に抗えない」と言いますが、このエピクテトスの哲学は感情の中身を変革させます。イラっとしたりムスッとするところを、させないのです。なぜなら「人の言動や考え、気持ちのあり方」はコントロール外と深く知っているからです。しかし言い返したり反論したりは有効です。それ自体は自分のコントロール内だからです。言い返したり反論することで、今後に黙らせられるかもしれません。そのときは感情的にならず、冷静に論理的に伝えることが肝要です。

 

結局気持ちの切り替えが上手な人が、人生を上手に生きられます。これは本当にそうです。そうなるためにも「知の働かせ」は必須です。ボクシングや格闘技をイメージしてみてください。打たれても冷静さを失わず戦略的な闘いを続けられる人をどう思いますか?冷静ということは自分を見失っていないということ。自分を見失っていないということは自分をコントロール内におさめ、その最大限に努めているということ。つまりは、自分との戦いだったのです。

 

律には知を「ストア派哲学」

 

あなたはいかがお感じになりますか?

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

部屋数の多いマンションを見よう!

私は疲れたとき、または落ち込んだときなどによくマンションを見ます。なぜでしょう?それは「自分だけでない、さまざまな暮らしがこの世には存在する」ということが確認できるからです。自分を俯瞰できるというか、さまざまな暮らしや状態にアクセスできることが大事なのです。人はとかく自分の世界に埋没し、それが有頂天ならまだしも落ち込んだときは、自分の環境だけで判断しがち。しかしそんなわけはありません。上司に褒められても、他の会社であればどうかはわかりません。逆に上司に注意されても、他の会社であれば褒めてもらえるかもしれません。そういう多角的・多面的な視点が大事です。

 

タワマンのようなマンションでもいいですし、50戸以上の大型マンションでもいいでしょう、なるべく部屋数の多いマンションが好ましいです。タワマンだってみんな豊かな暮らしをしているわけではありません。団地だってみんな同水準の所得ではないでしょう。となりの億万長者ではありませんが、意外にお金持ちは質素にくらしているものです。

 

また年齢・性別も分散します。例えばあるマンションを見て専業主婦を想像してもいいですし、子育て奮闘中のパートタイマーを想像してもいいです。今日がたまたま休日で家でまったり映画を観ている40代男性もいいですし、在宅ワークの50代男性でもいいでしょう。

 

また怒っている人、リラックスしている人、何かに集中している人などモードも分散してみましょう。本当にさまざまな方が「いま・この瞬間」を生きています。それがわかるだけでいいのです。人によっては「それがどうした?」と思われるかもしれませんが、メタ認知で自分を埋没する狭い範囲から解き放ってあげることが大事です。そうすれば自分が落ち込んでいても、なぜか心はラクになりますし、小躍りしているときは調子の乗る自分を律せます。

 

まずは外部環境から自分のメタ認知を図りましょう。それが「マンションを見る」です。接点はないものの同じ時代に同じ場所で生活しています。接点がないところがポイントで、接点がすべてと思うから狭い自分の世界でモノを見てしまうのです。接点がない人のほうが圧倒的多数で、その人らが経済や生活をつくり、そこに私たちは乗っかります。

 

だからといって接点がある環境は軽視しません。「袖触れ合うも多生の縁」で本当は奇跡かもしれないからです。だから接点のない人たちからメタい認知をいただき、メタ認知の中で接点のある環境を語ればいいのです。そうすれば自分の気分はおのずとニュートラルに調整され、興奮することも感情的になることも避けられるかと思います。

 

また話は少しずれますが、電車の乗車中や飲食店などで、まわりが見えなくなっている人をときどき見かけます。店員に横柄だったり周りへの気遣いがまったくない人です。これらもやはりメタ認知ができていなく、正直カッコ悪い姿です。仲のいい人といて盛り上がっていたとしても、まわりへの配慮を忘れずに言動が調整される人は人間ができています。この人間ができていることの有無が、見えない信頼や好き嫌いにつながるだけでなく、自分の気分をなるだけ良好に保つ秘訣になっているのだと思います。

 

まずは定期的に自分を客観視するクセをつけましょう。そのための身近な最良策が「部屋数の多いマンションを見る」です。あなたはいかがお感じになりますか?

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

結局やれることは、ベクトルの「向き」

本日の内容は、前回の記事「逆風こそ"やりがい"」の続編です。考え方や見方、どんな言葉を信じるかで現実との折り合いが変わってきます。現実を嘆く人は、嘆かなくていい言葉をチョイスしません。また仮にチョイスしたとしても、信じる気持ちが保てません。そういうことを考えると、IQやEQでは語れない、メンタルの力の偉大さが伺えます。

 

歌手をみてみてください。短期だろうと長期だろうと、活躍している人は皆歌が上手なのでしょうか? 否です。一発屋でも長期でも、歌のうまさとの比例関係は見つけにくいです。

 

経営者もしかりです。リーダーシップを発揮できる人だけが成功しているのでしょうか? 内向きの人はいませんか? 営業パーソンも同様です。いいえ、どんな職種もです。

 

違いを分かつところはどこなのか?

 

さまざまな点があると思いますが、大きな要因に「メンタル力」があると思います。そうです、「前を向き、気持ちを新たにできる力」です。人間関係が特に顕著でしょう。誰かと諍いを起こしても、上司に叱られても、部下を叱っても、気持ちを整えて関係を良好な方に持っていける人は逞しいです。自分にとらわれていません。客観視ができています。

 

「自分に捉われず、客観視ができる」というのは、現実を受け入れることに他なりません。「こうだったら・・」とか「・・すべき」など、あり得ない現実を頭の中で持ちださず、ありのまま受け入れるのです。そうしたらもう簡単です。そこから自分に何ができるか、何をしたら現状が少しでもよくなるか、その策を実行するまでです。

 

病気になったらそれを受け入れる。

怪我をしたらそれを受け入れる。

人間関係に諍いが生じたら、それを受け入れる。

運の悪いことが振りかかったら、それを受け入れる。

 

そこに「たら・れば」はありません。時間の無駄です。自分と考えの違う人がいて当然で、"何年人生をやってるんだ!"と自分に突っ込みを入れるくらい、受け入れることから始めましょう。キリンが猫をみて、どうして猫は首が長くないんだ!と、もんもんとするくらい馬鹿げたことです。「人は人・自分は自分」で、これまで生きてきたバックグラウンドが違うのだから当然です。

 

私たちがやれることは、「現状の受け入れ」と、「そこからの改善」です。この2点は非常に大事なことです。現状を受け入れられなければ、改善は無理です。改善するということは、現状からのスタートを切るということなので、現状がどこにあるかを把握しなければ成り立ちません。まずは把握、そして改善。

 

自然は勝手に雨をもたらし晴れをもたらします。そこで雨を晴れに変えようと奮闘する人はいません。運命や現実も同様です。雨なら雨で、その中で今日より明日へ、自分なら何ができるかを実行するだけ。それがベクトルを上向きにするということです。晴れの日も同様です。晴れの中で何ができるか、何をしたら面白いかを考えるだけ。

 

結局雨でも晴れでも、そのときを楽しめる人と楽しめない人に分かれるということ。そしてポイントは、どんな現実も、ベクトルを上向きにできるかどうかだけが人生を分かつと認めることです。上向きの定義は「楽しさ」や「嬉しさ」、「やりがい」や「おもしろさ」などです。

 

繰り返します。

 

天気は変えられません。勝手に自然が変えます。また雨で人のしあわせは決まりません。晴れでも決まりません。決めるのは人の考え方と行動のみ、それがベクトルの「向き」です。

 

あなたはいかがお感じになりますか?

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。