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「環境」の力を借りよう!

私たちは遺伝から大きな影響を受けることは周知です。身長や体重、運動神経などはもちろん、能力、知能、性格、病気等も遺伝すると言われます。

 

しかし遺伝以上に大きいとされるのが「親の洗脳」。「三つ子の魂百まで」。

 

しかし米国の女性心理学者 ジュディス・リッチ・ハリス氏は著書「子育ての大誤解」で "子育ては、子供の人生にほとんど影響を与えない" として反論します。

 

どういうことでしょう?

 

ハリス氏の考え方はこうです。

石器時代には父親は狩猟に出るし、母親はすぐに次の子供を妊娠し、穀物などの採集もしなければならない。よって授乳を終えた幼児の世話をすることはできなかったはず。それならば2歳や3歳の子供の面倒を見るのは兄弟や年上の従妹たちとなり、つまりは子供は親よりも、世話をする兄弟や従妹、友達の影響を強く受けるです」

 

いかがでしょうか?

 

どちらの言い分も結局は幼少のころに世話をした人の影響を与えるとすれば一致します。

 

では世話をした人からの影響は、その後もずっと続き、途中で変えられないのでしょうか? そんなことはありません。世の中を見てみても、それはさまざまです。子供の頃の印象と大人のそれはまったく異なる人もいれば、同様の人もいます。何かの拍子で暗い人生を送る人もいれば、逆に明るい人生を歩む人もいます。

 

一例ですが私の学生時代を取り上げます。

 

私は小・中学生で友達や異性と会話に困ったことがありません。いつも友達に囲まれ、異性(女子)ともおもしろおかしく過ごしました。しかし高校生のときから少しずつそれが薄らぎ、大学生では人並みに一人の時間を体験しました。

 

社会人になれば、ますます一人の時間が増え、孤独ではありませんが、ピークが小・中学生にあるため、それと比べれば落差を感じざるをえません。

 

そして社会人になってようやく気づきます。"私はもともと内向的な性格なのだ" と。一人の時間が増えても、特にさびしいとか、孤独などは感じません。むしろ自分の好きなようにできて開放的と感じるくらいです。

 

しかし私の小・中学生はまったく今の感じと異なり、友達といっしょにいることが当たり前で必然。ですので、なぜ友達と遊ばない人がいるのか、なぜ教室の隅っこで小説を読むのか、それの何が楽しいのか、純粋に疑問でした。

 

ではなぜ私の小・中学生は友達といっしょにいるのが当たり前だったのか?

 

それは単純明快に「部活動」があったからです。小学生は野球部とサッカー部、中学生はハンドボール部。高校生は軟式テニス部でした。

 

学校の授業はそのままクラスの友達と、放課後は部活動で部活仲間と、休日は練習試合や本試合がありますから、これまた部活動の仲間と。たまの休みもテレビゲームがありますから、誰かの家に集まりみんなでテレビゲーム(当時はスーパーファミコン)です。

 

つまりは私は「環境」に助けられていたのです。そう、「部活動」や「学校」という名の「環境」です。ですから、本当は内向的な性格なのに、外交的を疑わず、内向的な人を不思議がりました。

 

ちなみに私が部活動に入った理由は、父親に "入れ" と強く言われたためです。私の父親はどちらかといえば厳格で、当時の私は威厳を感じました。ですので父親の命令は"ぜったい"みたいなところがあり、ある種仕方なく従った感じです。

 

しかし運動神経が悪いわけでも、スポーツが嫌いなわけでもありません。むしろ好きな方です。しかし父親の威厳や命令がなければ、私は部活動に入っていなかったと思います。そうすれば、運動やスポーツの楽しさもほどほどに感じなかったでしょう。

 

それよりぞっとするのが、友達や女の子との関係です。同じ部員のネアカな友達に恵まれて、女の子とも普通にしゃべれていましたが、部活動の環境がなければ、それらは当然に享受できずにいました。放課後は帰宅部で、家でテレビドラマの再放送を見ていたことでしょう。

 

私の体験は些末ですが、「環境」が当人の生活(人生)に影響を与えることは、少なからずおわかりいただけたと思います。人類の歴史の大半は石器時代のため、私たちの遺伝子は原始時代の生活習慣に最適化していると言われます。文明が成立して2000年や3000年では、遺伝子はまったく変化しないとも。

 

よって遺伝子など書き換えようのないことに目を向けず、書き換えようのあることに目を向けることが、今世の意義(つとめ)に思います。つまりは「環境」の力を借りるということ。

 

逆に私たち人間は「環境」の力を上手にコントロールすることを「天」から求められているのかもしれません。「天は自ら助くる者を助く」ということわざの「自ら助くる」とは「環境を上手に使うこと」と同義と思っても相違ないのではないでしょうか?

 

文明は道具を使って発達し、機械が産業革命をもたらしました。現在はデジタル情報革命の真っただ中。インターネットやAIがそれを担います。

 

メンタルをメンタルだけで解決するのは難しく、再現性や連続性(習慣づけ)も難しいでしょう。それよりも「環境」を使えるだけ使って、メンタルを明るく向上させることが人間の自然の姿に思います。

 

ダイエットも自宅が難しければ、ジムや動画(オンライン)の「環境」を借りる、「みんチャレ」のようなアプリやSNS「環境」を借りる、記録(日記)をつけるという「環境」を借りる、どこかのサークルに参加するのに友達という「環境」を借りて参加する、等々。

 

ナンパができないから合コンや街コンという「環境」を借りる、合コンや街コンが難しいから婚活パーティーやお見合いパーティという「環境」を借りる、お金がもったいないから友達に紹介してもらうという「環境」を借りる、等々。

 

勉強やデスクワークも同様。自宅が捗らないから、カフェ、ファミレス、公園、電車、図書館、カラオケルームなどの「環境」を借りる、少し飽きて捗らなくなれば、また別の場所やお店の「環境」を借りる、また捗らなくなれば、体を動かす(散歩)するために近くの公園の「環境」を借りる、等々。

 

どんな小さなことでも、心やメンタルで解決しようとせず、「環境」の設定(変化)で解決を図ること。これが人間の脳科学的にはもっとも有効かつ自然に則するアプローチだと私は思います。

 

思い返せば私の父は、幼少の私から「内向性」を見抜き、あえて運動系の部活動を勧めたのかもしれません。もし本当にそうなら、私は父に心から感謝しなければなりません。なぜなら私の学生時代は本当に楽しかったからです。本当に充実したからです。その青春時代は二度と還らず、二度とやり直せません。そんな貴重な体験はまぎれもなく「部活動」という名の「環境」が私に与えたもの、そう理解します。

 

父の"命令"がなければ、私は内向きな自分と相談し、当然内向きな判断をしたことでしょう。つまりは "今の自分" と相談しても明日や未来を変える原因にはならないということ。

 

そうではなく、"今の自分" で得たい感情が得られないから「環境」が用意されるのです。私たちがやるべきことは、どの「環境」をチョイスし、どの「環境」に飛び込むか、どの「環境」と一体化するか。

 

見つめるべきは "今の自分" ではなく「環境」です。「環境」の力を借りれば得られたであろう "感情" や "思い出" は、二度と得られない代物かもしれません。そう思えば、いついかなるときも「環境」選び、「環境」への飛び込み、「環境」との一体化は最優先にもつべき事項です。

 

「環境」の力を借りよう!

二度と還らぬ「チャンス」のために!

 

 

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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