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「ふだんの鍛錬」と有事

「日本の近代資本主義の父」と称される方に渋沢栄一氏がおられます。2024年度の新紙幣から、1万円札の肖像画に用いられることでも有名です。そんな渋沢氏の著書に次があります。

 

渋沢栄一著「富と幸せを生む知恵」(2012年3月発売)

 

その中に「ふだんの鍛錬があれば有事に動じることはない」という項があり、"有事の即断即決には、ふだんからの心構えや鍛錬が必要である" という内容です。逆から言えば"ふだんから鍛錬をしておかなければ、有事には本心に反した判断(結論)を下してしまう"ということ。

 

"有事"と言えば、個人にとっては大袈裟に聞こえますが、ここでは "本番"とか"想定外"とか、"体調不良(病気・ケガ)"などと置き替えてみてください。

 

誰しも突然に想定外のことは起こりうります。例えば"いきなり大声で叱責を受けた"とか、"完全にホットな見込み客だったのに、急に心変わりされ断られた"などです。

 

そんなときに動揺したり、落ち込んだりすることは、ごく自然な反応です。しかし即座に気持ちを入れ替えて、前向きに態度をシフトできる人もいれば、逆に何日間も引きずってしまう人もいます。この両者を分かつ要因はなんなのでしょうか? その一つが「ふだんの鍛錬」なのかもしれません。そこで本日は「ふだんの鍛錬と有事」について考えます。

 

「鍛錬」と聞くと、これもまた大袈裟に聞こえますが、自分の"ライフワーク"と思ってみてください。例えば"英単語を1日1語 コツコツ覚えている"とか、前回お勧めした"筋トレを日課にしている"などです。共通点は、自分にとって少し負荷がかかっているというところです。

 

医学的な見地からも、ストレスはないより多少はあったほうがいいと言われるように、肉体的にも精神的にも、多少の負荷がかかることを自分に課すことは、"生活のハリ"として有効ですし、それが有事のときならなおさら"平常心"という形で返ります。

 

例えば私事。

私は毎日朝晩と1日2回、頭から足先まで水シャワーを浴びます。季節を問わずに365日の日課です。それを続けて5年以上。もちろん12月現在も続行中。逆に寒冷時こそ、やりがいを感じ意欲を燃やすしだいです。

 

そんな私が例えば職場で上司にパワハラを受けたとします。受けた瞬間は立腹したり、落ち込んだりするでしょう。そして帰途の間も何度も思い出すかもしれません。しかしその晩の入浴後に、いつものように水シャワーを浴び、翌朝も同じように浴びます。するとどうでしょう? 

 

ふと我に返るのです。

 

毎日を日課に水シャワーを浴びている自分こそ、本来の自分であると。一人の人間として水シャワーと一体となっている自分こそ、この人生を生き抜くに値する自分であると。

 

どういうことか?

 

たった10年に1回、いや30年に1回あるかないかの些末な職場の出来事に埋没するには、この自分はあまりにも立派で大きく、何ものにも負けない力の結晶であると、我に返るということです。

 

世界は(職場なんかより)無限大に広く、自分の心も無限大に広いと、人生(人間)の視野を拡張してくれます。そのきっかけが「ふだんの鍛錬」。私のケースで言えば、水シャワーです。

 

ついては、「ふだんの鍛錬」は、"ふだん"と付くだけに喜怒哀楽や天気に関係なく、毎日淡々とこなせられる(自分のコントロールの範囲内における)ものがよろしいです。

 

「元(もと)に戻る」「基(もと)に戻る」といった感じでしょうか。今 私はパソコンに向かってキーボードを叩いていますが、叩くたびに指はホームポジションに戻り、ホームポジションをベースに叩いています。

 

それと同様に、私的には「毎日に水のシャワーを浴びる自分」がホームポジションで、都度戻る場所で、ベースとなります。

 

ただしそれは、私のホームポジションの一つであり、他にも別のホームポジションをいくつかもちます。逆にホームポジションは一つに絞るべきではありません。いくつかあったほうが、戻るきっかけが増えるだけでなく、色を楽しめます。「鍛錬」の種類を色と見立て、自分の中にたくさんの色を持つのです。

 

極めつけは、それら自分の「鍛錬」こそ、自分の芯で、主で、感情を担うエネルギー(氣)であるとの認識です。私の事例では"上司にパワハラを受けた"という客観的事実(外的環境)は、私のコントロールの出来事で、それは私の感情を訴えるに値しない無価値のものであると理解することです。

 

私の感情に直結するのは、数々の「ふだんの鍛錬」・・・それだけです。すなわち自分のコントロールにおける"それら"だからこそ、私の感情を担えるのです。

 

ということは、嬉しいことも、楽しいことも、喜ばしいことも、外部からもたらされるそれらは、やはり同様、無価値と同等と言えるでしょう。しかしそこは人間。都合よく、プラスの出来事は、素直に喜ぶ柔軟さをもてばいいのです。占いと同様、いいことは信じ、悪ことは信じないということです。

 

生きていれば、心を惑わされることやビックリすること、極度に緊張することに出くわします。そのときに、瞬間は反応するものの、すぐにもとのホームポジション(平常心)に戻れるよう、「ふだんの鍛錬」がその鍵を握ります。

 

無理をし過ぎない、背伸びしてとどくくらいの「鍛錬」が、もっとも今日に未来に、ハリ平常心を与えてくれます。

 

あなたはいかがお感じになりますか?

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。