なぜ「修養」なのか?
愛読書に「古典」を据えている人は多数にいると思います。特に経営者に多いイメージがありますが、なぜ「古典」なのでしょうか?
それは物事の本質が凝縮されているからです。「人としてどう生きることが自分や社会に幸福か?」ということを追求する場合、その追及に古典を学ばなければ解決が見いだせないというのが実際だと思います。経営での判断、人間関係での判断、岐路での判断などテーマはさまざま。そんなさまざまに汎用的に本質を知れるのが「古典」、私はそんな風に解釈しています。
古典の内容はさまざまな角度で追求できますが、人として幸せになりたい場合、「修養」が大切であると一つにあります。「人間学」も修養と言いかえられます。平たく言えば「自分を磨く」ことです。なぜ「修養」は大切なのか?
それは究極、自分に光を与えられるのは「自分」だけだからです。他社から光を与えられなければ自分を光らせられないのは、正直心許ないと言われても仕方ありません。「朱に交われば赤くなる」のが実際ですが、赤くなっていいかは時によりけりです。
刺激し合える仲間なら赤くなってけっこうですで、その反対に愚痴ばかりの集団なら、赤くなっては困ります。その集団から距離を置き、あらたに刺激し合える仲間を探すのが「修養」の役割。
またいくら刺激し合える仲間でも、その仲間付き合いを継続するのに、自分に修養の精神がなければ難しいです。下記の王貞治氏の名言は、まさに修養の大切さを凝縮してます。
「敵と戦う時間は短い。自分との戦いこそが明暗を分ける」
自分との戦いに勝つために、「修養」が大切ということです。修養が足りず、自分にまけてしまえば、やがて切磋琢磨し合えた仲間との波長も合わなくなります。そういう意味で、先に「継続は難しい」と書きました。
人と会っているときやSNSの投稿、何かのコミュニティだけでは「その人」はわかりません。「その人」がお金持ちでも人持ちでも、はたまた権威持ちでも、「その人」を幸せにできるのは「その人」しかいません。褒めたり楽しんだりはできますが、それは一時(いっとき)のことで、夢や目標、健康やメンタルなどは自分でしか管理できず、そこをグッと持ち上げ続けるのが「修養」です。
自分を健康にできるのは自分だけ
自分を人脈豊かにできるのも自分だけ
自分を家庭円満に置けるのも自分だけ
すべて自分しか解決できる人はいません。だから「修養」なのです。「修養」は人間学であり、人心掌握であり、科学であり、行動力です。形から入るのも良し、勉強から入るも良しで、答えはついぞありません。いつもトライアンドエラーが求められ、それにめげない精神を「修養」で育みます。
結局言いたいことは一つ。
なぜ「修養」なのか?
それは「自分に光を与えられるのは自分だけ」だからです。
あなたはいかがお感じになりますか?
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。