「蓮の花」を生かす「泥」3
前回の記事「蓮の花を生かす泥2」のつづきです。
さっそく見ていきます。
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「不幸」や「悲劇」と思えるものが「泥」。「泥」がなければ「蓮」も咲かない。蓮の美しい花を咲かせるためには「泥」がどうしても必要なのです。」
私たちは、不幸や悲劇というものに向き合った時、それらは自分の人生にあってはいけないものと否定的に思ってしまいがちです。つらい経験をした上に、さらに自分を責めて自己嫌悪に陥り、自己嫌悪している自分にまた自己嫌悪するという「自己嫌悪の連鎖」になってしまいます。
けれども、その経験を「悪」として、自分はダメだななどとふさぎ込む必要はないのです。もし失敗をしたのなら、次に同じ経験をしないように学んだり、同じ失敗をする人を出さないよう教訓にすることもできます。
「泥」のような経験も、「学び」という栄養のひとつと受け入れることで、自己嫌悪の連鎖から抜けることができるのです。あなたは、もうその経験をして苦しんだのだから、それを糧として誇り高く生きてほしい。そういう願いが、正観さんのこの言葉に込められているように私は感じます。
(中略)
どんな出来事も、貴重な素晴らしい体験と自覚し、成長して、あなたの蓮を咲かせましょう。
(小林正観・斎灯サトル著「正観さんのしあわせ絵言葉」より抜粋)
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ここで「泥」を「学び」と捉えることの大切さが出てきました。
ところでなぜ人は失敗や恥を素直に「学び」と捉えられないのでしょうか?
その大きな要因に「人との比較」があると思います。"他の人なら失敗しなかっただろうに、私は見事に失敗してしまった" などです。恥も同様です。
ということは、失敗や恥そのものが当人を落胆させているわけではなく、「人との比較」がそうさせている、というほうが的確のような気がします。
それを前提に話を進めます。
無人島で当人以外が存在しなければ、失敗も恥も素直に「学び」と捉えられ、むしろエジソンのごとく間違いを発見できたとに小躍りすらするかもしれません。
つまりは「人との比較」をなくせばいいとなるわけですが、どうしたらそれが可能となるか? ここで私の提案です。次のように考えてみてはいかがでしょうか?
「そもそも人が失敗したり恥をかくことで、自分は喜びを感じるだろうか?」
あなたが失敗をせず、恥をかかず、誰かがそれをしたときのことを考えてみるということです。もしかしたらあなたは "自分はセーフだった" とか "恥をかかなくて済んだ" などと安堵の気持ちを持つかもしれません。しかしこうも考えられます。
「その失敗や恥をかいた誰かが、さも事も無げに笑って喜びすら感じている」
そんなとき、"すごいな" とか "清々しい" といった羨ましさすら感じるのではないでしょうか。
実際はその場の雰囲気や状況で印象も変わると思いますが、"自分がセーフだった"とか"恥をかかなくて済んだ"という思いと、あなたの自己成長は何も関係がないということです。相手がミスや失敗をして、あなたがその人を見下したとしても、あなたの「蓮の花」は喜ばないどころか、逆に萎れるかもしれません。
逆に誰かのミスや失敗は、自分も起こり得ると「教訓」に変えたならば、それは「泥」として「蓮の花」の栄養となるでしょう。
すなわち「人との比較」において、あなたのミスや失敗、恥というものは、積極的にあなたが「泥」して栄養化(学びと)すべき命題で、あなたをどう思うかは、周りの「蓮の花」としての命題なのです。あなたを見下せば、その人はそれまでの人、あなたを教訓とすれば、逆にあなたはその人に「教訓」として貢献できたわけなので一石二鳥と喜ぶべき事項です。どんどん周りの人の教訓に貢献(寄与)すればいいのです。
大事なことは周りや人の目線ではなく、目の前のミスや失敗、恥ときちんと向き合うこと。そして「泥」を積極的に栄養と化する前向き性、感謝心を持つことです。
ということで、本日で「蓮の花を生かす泥」は終わりです。
紛れもなく現存する「蓮の花」は、きっと私たちに生きる姿勢を教えてくれています。ぜひそのことに感謝し、私たちの生活(人生)に生かすことができれば、「蓮の花」もきっと喜んでくれるに違いありません。
あなたはいかがお感じになりますか?
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。