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「蓮の花」を生かす「泥」2

「蓮の花を生かす泥」は前回の1回で終わる予定でしたが、同書(正観さんのしあわせ絵言葉)にあと2つ、同じ内容の項がありますので、捕捉します。捕捉と言いましても、内容は基本的に変わらないため、補強と言ったほうがいいかもしれません。

 

では見ていきます。

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「泥の中から蓮が咲く。辛さの数だけ蓮が咲く。たくさんの蓮を咲かせるために、たくさんの泥 たくさんのできごと。」

 

蓮は、真水からでは花は咲かず、泥があってこそ咲きます。つまり、蓮の花を咲かせるためには、泥が必要なのです。泥のような「つらさ」を経験した数だけ、蓮のような魂が開花します。蓮の開花というのは、感謝の気づきであったり、幸せの発見であったり、奇跡を受けとめられることです。

 

あなたの人生に起きたたくさんの出来事は、たくさんの魂の蓮を咲かせるためにあったとも考えられます。

 

正観さんは日常会話の中で、多くの人が「つらいこと」と表現するのを、「つらいと思えること」といいかえていました。また多くの人が「悲しいこと」と表現するのを「悲しいと思ったこと」と、細かくいいかえていました。「こんなつらいことがあったんです」という言葉を「こんなつらいと思えることがあったんです」というように。

 

なぜなら、それはあくまでも自分がそう思っただけであり、宇宙的には「悲しい」「つらい」「善悪」などないからです。それはその人の見方、考え方に属するものであり、その人の主観に過ぎないからです。

 

泥を汚れと捉えるか、栄養と捉えるか、もう一度考えてみましょう。その体験があったからこそ、あなたは成長し、優しくなり、そして感性が広がっているのです。

 

小林正観・斎灯サトル著「正観さんのしあわせ絵言葉」より抜粋)

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いかがでしょうか。

 

正観さんのモノの見方論を斎灯さんが見事に代弁されます。おっしゃる通りという感じですが、しかし現実は現実です。いくらあらゆることが無味無色で、味付けや色付けをするのが当人だとしても、それでもカッとなることや、イラっとすることなど、日常茶飯事です。その条件反射的な感情はないことにできませんし、誰しも感じて当然といえます。

 

そこで私からの提案です。

 

そもそも謂(いわ)われないことを言う人や、相手を傷つける人は「いて当然」と最初から構えるのです。職場でもプライベートでも、どこに行っても、蚊や蠅のように存在し、ときにゴキブリも発生すると前提を括るのです。

 

すぐに傷ついてしまう人は、おそらくその種の人らが「いなくて当然」と思っているのだと思います。相手を傷つけるようなことや、触れられたくないことにいちいち触れてくる人たちに、"そういうことは言ってはいけない、言うべきではない" と(人間関係における)マナーを守ってしかるべしと思っているのです。

 

しかし現実問題、言う人は言いますし、おかまいなしの人も存在します。

 

それらの人を道に落ちているゴミ同様、存在することをデフォルト(初期値)として生きるのです。お店や建物、草木や人々などそれ以外の景色がいっぱいあるのに、わざわざ道に落ちているゴミにフォーカスし続ける人はいないでしょう。それといっしょで、私たちは私たちで目的ある対象にフォーカスし、そのフォーカス力を強め、エネルギーに変えてくれる見方が「蓮の花を生かす泥」なのです。ここで「泥」とはいちいち人を不愉快にさせる人たちです。

 

結果的に正観さんや斎灯さんが言われるような、いっけん不愉快に思わせる出来事を、プラスに色付ける見方というのは、結局自分の目的や夢、希望や目標を明確にし、それらの世界で、「泥」を反面教師とする意識転換に発生するものと考えます。

 

また人や物事でも「泥」と思われる出来事に遭遇した場合には、きちんと打てる手立ては打つべきです。言うべきことはいい、対処すべきことは対処すべきです。そうすることで、心安らかに結果を天に任せられ、そういった自分を作れて初めて「泥」は蓮の花へと生(活)きるでしょう。

 

せっかくもらえる「泥」です。ありがたく頂戴し、ぜひ「蓮の花」として、大輪を咲かせようではありませんか。

 

次回のテーマも「蓮の花を生かす泥」でお届けします。

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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