ある「哲学的命題」
先日紹介した丹羽宇一郎さん著「死ぬまで、努力」に、ある哲学的命題が紹介されます。
「誰もいない森のなかで木が倒れたとしたら、音は聞こえるのか?」
どうでしょうか?
丹羽さんの答えはこうです。
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正解は「ノー」です。なぜなら木がドーンという音を立てて倒れたとしても、それを認知する者がいなければ音を発したことにはならないからです。
(同書より抜粋)
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つまりは?
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人間についても、あなたのことを認識してくれる他者、共鳴してくれる他者がどこかにいるからこそ、あなたが存在していると言えます。確かに他社の存在は、悩みやトラブルの原因になることもあるでしょう。
しかし他者とぶつかったり議論したりするなかでしか人間は成長できないし、そこには人間関係によって生じる苦悩よりも、はるかに大きな喜びや感動が潜んでいます。人生を有意義で幸福なものにしようと思ったら、やはり他者との関係のなかで自分を磨くことを忘れてはならないのです。
(同書より抜粋)
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簡単に申し上げると「他者に働きかけてこそ自分が認知され、自分が生(活)きる」そういうことだと思います。ですから、できるだけ他者へは"よい働きかけ"を心掛ける、それをもってしてもうまくいかないことがある、だからこそそれが(丹羽さんの言う)「自分磨き」ということなのでしょう。
私はこの哲学的命題を知り、別のことを考えました。それは言われない誹謗中傷を受けたとき、言われない嫉妬ややっかみを受けたとき、そのときの対処です。
その言われなき誹謗中傷(嫉妬・やっかみ)を当人が受信しなければ、それはなかったも同然ということ。この手の話は自己啓発でよくあります。あなたも見聞きしたことがあるのではないでしょうか。
しかし「言うは易し行うは難し」。私も当ブログでよく"受け流せばいい"とか"しなやかにかわせばいい"とお伝えしていますが、どうしたらそれができるのか?そこが大事です。
いろいろな方策があろうかと思いますが、私からアドバイスさせていただくとしたら、次を挙げます。
「私は自分の命の正体は肉体でも心でもないと信念していますから、全然びくともしませんよ。ただ、私は、現在生きてることを楽しんでるだけなんだ。肉体がどうあろうが、こうあろうが、そんなことは何ともない」
by 中村天風「心に成功の炎を」
中村天風氏は心身統一法を広める「公益財団法人天風会」の創設者です。難病を克服し、健康だけでなく、人生の幸福をも説かれる実践哲学者で昭和の哲人と称されます。
天風氏の言葉の斬新なところは「自分は心でもない」と信念しているところです。人間は感情の生き物ですから、気にしていることや、ショッキングなことを言われたら、それは当然に傷つきます。
そこまでは大なり小なりみな同じでしょう。しかし車中の車窓が毎瞬変わるように、1秒後には別の景色が映し出されます。にもかかわらず前の景色(嫌なこと)を思い出すことにナンセンスさがあるわけです。
では自分(人間)の正体とは何なのか?
「人間というのは、本当の人間の正体を突き止めていくと、何も見えない、感じない、霊魂という気体である。それで霊魂という気体が現象界に命を活動せしめるために、その活動を表現する道具として、肉体と心が与えられてあるんだ」
そうです。私たち人間の正体は「氣」なのです。ですから傷ついた心を修復させるのも、病にかかった体を癒すのも、すべては宇宙とつながる「氣」のなせる業。
しかしまだオカルトの類(たぐい)と思われる方も多いはず。天風氏はこの「氣」を電気にたとえます。
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ただ多くの人々は、命と言うとすぐ肉体ということを考えるために、大変な間違いがそこに出てくるので、肉体に不思議な命の力があるんじゃないんです。
霊魂という気の中に、不思議な働きを行う力がある。
それはちょうど、回っている扇風機にあのファンを回す力があるんじゃなくして、あの風を起こしているファンが回っているのは、電気という不思議なものが、これを回すという動力を起こしているから。
このたとえでもってすぐ人間というものがわかりそうなものだが、人間だけは何かこう、肉体に生きる力があるように思っているところに、大変な寸法違いがある。
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電気だけが流れても、電気を活かすモノがなければ、電気を有効活用できません。それと同じで「氣」だけ散漫しても現実ではなく、「氣」の受け入れ口が「心」で受け皿が「肉体」でそれをもって「人間」というわけです。
ですから「心」は「氣」の流入口として非常に重要な役割を果たすため、天風氏はしきりに口を酸っぱく積極的精神を説かれるのです。
話しを戻すと言われなき誹謗中傷、嫉妬、やっかみ、裏切り、さまざまなショッキングな出来事で感情を傷つけられたとき、それでも天は私たちに「氣」を流入しつづけます。まさに太陽。どんなときも私たちを照らします。雨でも曇りで太陽はその奥で燦燦と照らします。
車窓の景色が毎瞬変わると言いましたが、毎瞬に「氣」は流入するわけで、その"今"に流れ来る「氣」に意識を置いてあげることが、過去を置き去りにする秘訣に思います。
せっかく天は宇宙をつかさどる「氣」を私たちの「氣」と同期せしめるのに、それを消極的でネガティブな心で閉ざしてしまうのが、あまりに"今"の「氣」に失礼ではないか、そんな思いです。
Aさんに傷つけられたとしても、Aさんより圧倒的に大きな存在が「天」で、圧倒的な愛で私たちに「氣」を配ります。親と子は「血」で繋がっていると言われますが、「天」と「人間」も「氣」で繋がっています。
過去をネガティブに振り返ることは"今"の「天」に失礼に当たると鑑み、常に「天」と一体となる心持ちで未来に生きること、それが私のアドバイスです。
私もこれまで人並みに傷つき、挫折し、悔しい思いをしてきたと思います。しかし「天」や「宇宙」という圧倒的なスケール感に抱かれることを思うと、「天」や「宇宙」に感謝の気持ちが芽生え、できるだけそれらと一体化して積極的に生きよう、そう思わせてくれます。
その積極的に生きるというのが、単純に"楽しい""おもしろい""嬉しい""喜ばしい"、そんな心です。すばやくそれを見つけ、すばやくそれにアクセスするのです。だからいつも好きなことや楽しいこと、嬉しいことに焦点を当てる前向きさを私は勧めるのです。なぜならそこに「天(氣)」があるからです。
「誰もいない森のなかで木が倒れたとしたら、音は聞こえるのか?」
丹羽さんが言われるように、多少イヤなことあろうとも、それを断然上回る良きことがそこにはあり、それを追い求める結果が「自分磨き」。
逆に受信(認知)しなければ、音はなかったも同然。一瞬は心をネガティブに揺らしても、次の瞬間は次の瞬間の「氣」があなたに同期せしめます。それをきちんとキャッチしてあげる「天」への深い感謝の念、「天」への深い愛の念があなたの心を不思議と晴れやかにします。
心も肉体もしょせんは道具。「氣」が人間の正体。その気づきが心を前向きにしてくれると思います。
あなたはいかがお感じになりますか?
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。