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「絶望」から感謝と勇気2

前回のつづきです。

 

樋口裕一さんが20代後半から30代前半にかけて、自分の絶望状態に問いかけた数々の言葉、その中で私が一番参考になった考え方を紹介します。

 

ついては、私の言葉で説明するより、彼自身の言葉をそのまま伝えた方がわかりやすいと思います。著書「絶望の中で自分に言い聞かせた50の言葉」よりその項をまるまる転載します。

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私がいかに苦しんでいるか、ほかの誰も気づかない。ということは、ほかの人もみんな私と同じように、あるいはそれ以上に苦しみながら、それを表に出さずにいきているということではないか。

 

私は自分が絶望し、世をはかなんでいるころ、自分がもっとも不幸だと思っていた。自分以外のすべての人は、幸せに生きている。その証拠に、デパートに行くと、幸せそうな家族や、仲の良いカップルが買い物をしている。テレビを見ると、幸せな人たちが映し出されている。タレントたちもそう、ニュースに映し出される一般の人々もそう。

 

自分は特別に不幸な人間、世界で一番、悲しい人間。そんな気持ちになっていた。だが、言うまでもなく、それは少女趣味でしかない。

 

 私が絶望の底にいるころ、私は必ずしも、絶望的な顔はしていなかった。ふだんどおりに生活し、普通に生きていた。悲しい思いはしていたが、顔に出すことはなかった。ほかの人に私の気持ちを知られることはなかった。私の内面に気づいた人は、ほとんどいなかった。

 

だとすると、幸せに見える人たちの中にも、不幸な人がいるのではないか。その後、私は事故で妻子を失った人を知った。子どもを病気で亡くした何人もの人と知り合いになった。自分が癌に冒されている人も知った。そんな人たちは、自分の苦悩を表に出すことなく、平然と暮らしているように見えた。

 

人間は誰もが苦しみを抱えて生きている。外からは幸せに見える人たちも、決して幸せではない。たとえ今幸せでも、人間である限り、すぐに死ぬ。成功した人間も死ぬ。美人も醜くなる。たとえ幸せな家庭生活を送っていても、自分が愛する家族を残して先に死ぬか、それとも愛する家族が自分を残して先に死ぬかだ。

 

そういう意味では、幸せだった人間であればあるほど、死が苦しみだろう。美人であった人間であればあるほど、老いを残酷に感じるだろう。人間だというだけで、誰もが途方もない不幸を背負っている。

 

そう考えれば、自分の絶望など、なんでもない。世界中のたくさんの絶望のなかの、ほんのちっぽけな一つの絶望でしかない。それをまるで世界でもっとも大きな不幸だというような顔をしているのは、むしろ傲慢だ。

 

世界中の人が苦しんでいる。そして、それを表さずに、生きている。心の奥底の苦悩を出さずに生きている。なんと、人々は偉大なのか。ちっぽけな不幸をたいしたことのように思っている自分はなんとちっぽけなのか。

 

そう考えると、生きる希望が湧いてくるのではなかろうか。

(同書より転載)

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ショックや悲しみ、落胆にはさまざまな原因があります。しかしその大半が "なんで自分だけ!?" という思いを根底に持つ気がします。

 

例えば私の母親。母親はあるとき車と接触し、足を軽く骨折したことがありました。幸い大事に至らずよかったのですが、そのとき私に漏らした不満の言葉が次です。

 

 "なんで私が!?"

 

私の母親は特定の宗教に入信していたわけではありませんが、俗に神様を信じる人でした。家には神棚があり、朝と晩に必ず一言二言お祈りしていました。そのようなタイプの人ほど、「善因善果・悪因悪果」の考えを持つため、"同じように交通事故に遭うなら、私のような善良な者ではなく、もっと悪いことをしている人が遭うべき" と思ってしまうのです。

 

しかし天はすべてを平等に扱います。すなわち善人も悪人も平等に照らすのが太陽です。太陽も風も月も、人を選びません。私の好きな言葉に次があります。

 

「雨は一人だけに降り注ぐわけではない」

by ヘンリー・W・ロングフェローアメリカの詩人)

 

自然現象は嘘をつきません。この名言で "苦しみも、悲しみも、自分だけが与えられるわけではないんだ" と心底から理解できます。そうすれば、あの人も・この人もみんな同じ自然現象にさらされる "同士" と仲間意識すら芽生えます。その共生感に私は「感謝」を覚えます。自分だけが雨に降り注がれたら悲しいですから。

 

樋口さんが言われるように、自分より辛い立場に立たされても、それをわざわざPRする人の方が少ないです。「木」から「森」に視野を広げ想像を膨らませることで、冷静さを取り戻し、客観視でき、それ(自分だけではないこと)にようやく気づけます。大事なことは「木」から「森」に視野を広げ想像を膨らませることができるのは、万物の霊長である「人間」だけということ。

 

人間が人間たる所以(ゆえん)は「想像」を働かせられることにあります。動植物に想像力はありません。人間特有の産物です。

 

そのように考えると、いつも笑顔の人ほど、ものすごく立派な人かもしれません。その逆もあり得て、いつも暗く不機嫌な人ほど自己中で自分勝手とも言えます。

 

明るく笑顔だからと言ってその人に雨(苦しみ・悲しみ)が降り注いでいないと決めつけるのは早計です。ただし雨(苦しみ・悲しみ)の受け止め方・受け入れ方が上手であることは確かでしょう。

 

ぜひ上手になる一つの参考に樋口さんの "気づき" を活用いただければと思います。私もこの "気づき" で何度と救われたかわかりません。これからも私はこの考えをベースに自分を客観視することと思います。

 

最後に雨の降る "タイミング" は個々に違うことも付します。あきらかに自分だけが雨に打たれている気がしても、時期は違えど「雨は一人だけに降り注ぐわけではない」のです。

 

ただの雨を(想像力を使って)「恵みの雨」にできるのは人間だけ。雨のときこそ人間が万物の霊長であることに感謝をするときかもしれません。

 

あなたはいかがお感じになりますか?

 

本日も最後までお読みただき、ありがとうございました。