心の戦士!~心が前向きになる言葉~

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"わしには憎んでる暇はない"

黒澤明監督の映画「生きる」は、余命3ヵ月を宣告された主人公(渡辺勘治)が「生きる」とは何かを問い直した珠玉の名作。渡辺は今まで遅々として進まなかった公園の建設に力を注ぎ、その過程で腹立たしいこともありましたが、人を憎む暇もないほど邁進します。

憎しみに貴重な人生の時間とエネルギーを使うことの"もったいなさ"、他の有益なことに力を注ぐ"重要さ"をメッセージとして含みます。

 

 

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ところでなぜ公園の建設なのか?

少しストーリーを覗きましょう。

 

渡辺の仕事は市役所の市民課の課長職。あるとき、下町の主婦達が "近所の汚水溜めが不潔で子供たちに健康被害がもたらされる、何とかできないか、例えば公園を作るとか" と市民課に陳情します。そのときの渡辺は仕事への情熱はとうに冷め、毎日書類の山に囲まれ、まわってきた書類にただ判を押すだけの模範的役人。主婦たちの陳情など土木課に たらいまわし します。

 

その後 余命宣告を受けた渡辺は当時部下で玩具会社の町工場で働く1人の女性(小田切とよ)と行き合い、溌剌としたとよの初々しさに触れるうちに、自分の人生になかったものを見い出すようになります。あるとき喫茶店で、渡辺は自分が胃がんであることをとよに告白。とよは町工場で作ったウサギの人形を出してこう言います。

"今、こんなものを作っているの。結構楽しいのよ。日本中の子供と仲良くなったような気がするわ。課長さんも何か作ってみたら?"


彼は事なかれ主義の盲目判を機械的に押すに過ぎなかった自分の勤務ぶりを痛烈に恥じます。勤続30年を目前に、市役所市民課・課長職として、自身の今後の使命・役割に覚醒、公園の完成に一縷の光明を見い出します。

 

それからの渡辺は人が変わったように、雨に打たれるのも忘れ、公園の建築現場を歩き廻り、土木課、下水課、総務課と通い詰め、公園計画を説得。しかしその甲斐むなしく助役には "この件は見送れ" と一蹴され、それでも渡辺は諦めません。が、やはりその後も何度も踏みつけられ無視されます。

 

憐れんだ部下の大野は渡辺に聞きます。

 "課長は腹が立たないんですか、こんなに踏みつけにされて"


渡辺は答えます。


「いや、わしは人を憎んでなんかいられない。わしにはそんなはない」

 

渡辺はそれから5ヵ月後、出来上がったばかりの公園で、ひとりひっそりと死んでいました。 という話しです。

  

渡辺の余命3ヵ月と、私たちの現在の3ヵ月、流れる月日はまったくいっしょで、価値も同等なはず。しかし余命宣告されないとその貴重さに気づけない、いや気づけても具体的に動けない。それはあまりにも "もったいない" ことです。

 

あなたが今30代なら、その30代はあと何日かで必ず消滅します。

あなたが今50代なら、その50代はあと何日かで必ず消滅します。

 

その有限さを「今日」という日に持ってこられるか否かが「今日」の価値を決めるのだと思います。

時(とき)は無情なまでに一方通行で流れます。

その時(とき)に私たちがいかに意思表示し、行動し、形とするか。

 

私たちは生きていれば、腹立たしいことや理不尽な事、ストレスと言われることに幾度と遭遇します。それは誰でもいっしょ。しかし受け止め方が違う。その違いを分かつのは、当人がその対象以外の重要なことをいくつもっているか。視野は大きいか。どれだけ強固か。そういうことだと思います。

 

卑近な例で申し訳ありませんが、出勤で自宅から最寄り駅に向かう途中に、あなたは犬の糞を見たとします。おそらく一瞬はイヤな気になるかもしれませんが、数分後は忘れ、ふつうに電車に乗車していると思います。

 

しかしその後も犬の糞を何度と思い出し、何度もイヤな気になろうと思えばなれます。しかし実際はならない。それは犬の糞より重要なことがごまんとあり、実際に現実(行動)の最中(さなか)に入り込むからです。

 

あなたが何かのストレスを抱えているとしたら、そのストレスの対象自体は犬の糞といっしょ。そこにフォーカスしようと思えばいくらでもできます。ですからフォーカスしなくて済むような あなたにとってもっと重要なことに目を向け、その重要なことの最中(さなか)に入り込むのです。一体となるのです。

 

重要な対象はいほどよく、大きいほどよく、いほどよいです。

それは渡辺の「住民のため」という公の目的でなくてもかまいません。

自分が満たされてこそ、公が芽生えるのですから、自分の好きなことに一所懸命没入することが大事です。ネットカフェで漫画を読む、映画を観る、旅行に行く等どんな些細なことでも、心から楽しめてワクワクし、興味があることならなんでもいいでのす。

 

 

繰り返しますが、ストレスの対象は誰の身にも降りかかります。

犬の糞は誰の目にも入ります。

それに(何度も)気を取られるか否か、それは命(とき)の有限性をリアルに感じ、重要な「何か」の最中(さなか)に入り込むか、一体となるかどうかです。渡辺は公園の建設という目的の最中(さなか)に入り込み一体となりました。

 

 

 あなたの大切な "今" という時(とき)は、犬の糞に気を取られる場合ではないはず。そんな暇はありません。

 

今後のあなたにイヤなことがあったとき、イヤな人に出くわしたときは、渡辺のように余命宣告を受けた自分をリアルに想像し、貴重な今を無為に過ごさないように心を前向きにしていただきたく思います。きっと後から振り返ったその日は、何倍にも大きく誇らしく糧となってあなたに微笑みます。