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競争社会と道徳論

私は先日次の記事を上げました。

leonet0702.hatenablog.com

私が昨年にスマホのキャリアをソフトバンクから楽天モバイルに切り替えて、インターネットの通信料金を引き下げたという話でした。それに加え、現在使っているWiMAXの料金も楽天のポケットWi-Fiに切り替える予定という話もしました。いずれも通信料金のランニングコストを抑えるためです。

 

ちなみに楽天三木谷社長の著書に「競争力」があります。競争こそがイノベーションを生むきっかけ・機会になるという論ですが、自身がそれを地で行っている形がとても頼もしいと感じます。

 

しかし私は特に楽天経済圏で生活する者ではありません。どちらかといえばYahoo経済圏でTポイントをありがたがる者です。ただスマホ料金や通信料金を引き下げるのに、楽天モバイルが一番最適と感じただけです。

 

さて本日は競争社会と道徳論について。

 

結論、やはり競争があることでイノベーションとまでいかなくても、品質やサービスが向上し、経済は潤っていくと考えます。なぜならグローバル社会におけるグローバル競争を無視することはできないからです。

 

仮に日本が世界と戦わず、競争力を弱める政策をとった場合、日本のGDPは衰退する一方です。日本人が買い物をするほとんどが外資企業による提供だった場合、外資GDPが増加する一方で、貧富の差は極大にまで広がります。

 

日本のGDPが弱まれば、国単位での設備投資が弱くなり、例えばAIやIT、宇宙開発、5Gや6Gと言われる通信ネットワークのシェアが乏しくなります。しかし間違いなく時代はそれらの方向に進んでおり、それらをうまく生かしたビジネスが盛んにならなければ、GDPの成長は望めません。

 

しかし日本のような少子高齢化社会を迎える先進国で、GDPの成長など期待できるのか?、そもそもGDPを成長させなくてもいいのでは?と考える人もいます。

 

GDPの成長が弱まれば、まず平和を維持する外交力が弱くなります。戦後の日本はジャパンアズナンバーワンと言われるほど、高度経済成長を遂げてきました。それとともに外交力も向上させ、それを平和に結び付けてきました。平和維持のためにアメリカや諸外国に多大な資金援助をしてきたということです。それが弱まれば、これまで通り平和を維持できるのか?という疑問が生じます。

 

また経済的弱者に対するセーフティネットも気になります。日本企業が潤えば、法人税所得税が納められ、その税収が社会福祉や公的サービスに回ります。しかし税収が低下すれば、これまでの福祉やサービスが維持できなくなり、結果、経済的弱者から困ることになります。

 

やはり国家単位でも企業単位でも個人単位でも、競争力は適度にあった方がいいというのが私の考えです。

 

ちなみに数年前から教育産業に導入された「反競争教育」に賛否が起きているのをご存じでしょうか。よく言われる徒競走で順位を付けないとか、通信簿の絶対評価などです。私はよくわかりませんが、この徒競走で「みんなでゴールをする」という状態が、心理的に"だから助け合わなくていい"という状態を生んでいると言う専門家もいます。「人を蹴落とす気持ちを抑えて、みんなで一緒に」が「みんな同じなのだから助ける必要はない」という感情を生んでいるということです。

 

本当にそうだとしたら、社会主義国家の始まりを懸念します。徒競走で言えば、足の遅い子は学校側が自分をなんとかしてくれると思い、足の速い子は徒競走にやる気を感じなくなります。弱者を基準にルールを作れば、強者がさらに強者になるルールがなくなります。しかしグローバル社会に求められるのは、圧倒的な強者です。

 

また「競争をしてきた人の方が、相手の立場に立って物事を考えることができる」と唱える人もいます。近代経済学の父と称されるアダムスミスの「道徳感情論」で"世の中の秩序はどうして保たれるのか?"の解にスミスは"人間は相手の立場に立って考えることができるから"としています。私たちでいえば"今ここで万引きをしてもぜったに見つからない"という場面でも"お店に悪いから"と実行しない人がほとんどでしょう。

 

私の考えはこうです。

 

競争社会が自分の得意不得意を見極めさせ、得意を伸ばすことで世の中の役に立ち、それが企業単位、国家単位でも、グローバル社会で活躍できる日本を生むことになると思います。

 

競争原理により自分の不得意が確認されれば、相手の立場にたって物事を考えれるようになります。個人差はありますが、不得意の自覚が他者への思いやりにつながることは否定できないところだと思います。私が怖いと思うのは、先の徒競走で言えば、"足が遅くても先生や学校、ひいては国がなんとかしてくれる"とすべてに努力が向かわなくなることです。"悔しい"とか"情けない"といったハングリー精神が、自分の得意を見つけ出し、そこでの奮闘につなげます。

 

しかし不得意がわかっても得意を伸ばす土壌がなければ、あまり意味を成しません。そういった観点でBI(ベーシックインカム)はその土壌を作ってくれると期待されています。もし得意を伸ばせる環境が方々(ほうぼう)で作られれば、もっともっと道徳的な社会が到来するような気がします。

 

「競争社会と道徳論」

 

あなたはいかがお感じになりますか?

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。