「後悔」より「諦め」
先日に、自律神経の名医、順天堂大学医学部教授・小林弘幸先生著『死ぬまで“自分”であり続けるための「未来日記」』が解説された記事を拝見しました。
その中に私が普段に思っていることが端的に一行に集約されていたため、その鮮やかさに思わず膝を打ちました。それが下記です。
「未来の自分が微笑んでいられる生き方を考えて、今を生きる」
"今を生きる" というと刹那的に生きることを想像してしまいがち。しかし以前の記事で申し上げた通り、目の前の快楽にありつくことや感情に任せた行動は "今を生きる" とは言いません。むしろそれらを「律する」ことこそ "今を生きる" ことなのだと思います。それを私は「忍耐」という二文字で記事にも上げました。
「忍耐」の「忍」の字は "ごんべん" をつければ「認」となり、主体性をもつ納得感が原因、ゆえに主体性を失う我慢とは一線を画すという話です。
この「忍耐」をより実践しやすくするのが「未来の自分が微笑む姿をありありと想像する」ことです。
ところで小林先生は記事の中で「後悔」と「諦め」の違いを次のように述べています。
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後悔というのは、「こんなはずじゃなかった」と思ったときに生まれる感情です。思い描いていた理想とは異なる現実に直面し、「なんでこうなってしまったんだろう」と振り返ったときに、大事なところでベストを尽くしていなかったり、判断を誤ったりした分岐点が見えてくる。すると、「本当は、もっといい人生だったかもしれない」という思いが芽生え、後悔にさいなまれます。
いっぽう、諦めというのは、「これだけやってダメだったんだから、仕方がない」という、すっきりした心情です。たしかに、思い通りの結果は手に入れられなかったけれども、ベストは尽くしたんだから、どうしようもない。そう思えれば、「あのとき、ああしていればよかった」などと、過去を思い返すことはありません。完全に断ち切って、前を向けるのです。
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続いて「後悔」と「諦め」を分かつ原因に触れます。
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「後悔」と「諦め」を大きく分けるもの。それは未来と真剣に向き合い、シミュレーションしているかどうかです。言い換えると「未来の自分が微笑んでいられる生き方を考えて、今を生きる」ということになります。(中略)自分の価値観と、一度腹を据えて向き合い、どうか悔いが残らないように過ごしていただければと思います。
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いかがでしょうか?
脳科学の知見も豊富であろう医者が、ここまで "今を生きる" をわかりやすく解説されるのも珍しく思います。ポイントは "未来" で、未来の自分を微笑ませるための "今" と決め込み、目の前の快楽を断ち切り、厳しい方に自分を向かわせる、そんなイメージでしょうか。
こういった生き方もおそらく「慣れ」がすべてになると思います。最初は目の前の誘惑や快楽に潔さは見せられませんが、それでも目をつぶって厳しい方に向かわせる自分を決行すれば、翌日や翌々日には、「その日の自分」が本当に逞しく愛おしく思えるものです。
そしてそれを繰り返すごとに、すなわち「慣れ」が生じれば、目の前の誘惑を断つことに潔さも生まれ、"1つの分野でできたのだから、他の分野でもできるかも" とそれ以外の誘惑(他分野)にも波及させられます。
最後に ”今を生きる" をもう少し深堀りします。
"今を生きる" とは「その日」「その日の自分」を振り返ったときに、愛おしく思える状態から入りますが、「慣れ」により、振り返ったときを待たず、"今" の瞬間にそれを感じられるようになるということ。
小林先生の言葉を借りれば "未来の自分が微笑んでいられる生き方" を選択できる「主体性」の実感に、”今を生きる" 手応えを重ねられるということです。
本記事をきっかけに、後悔を断ち、諦めを追いかけてみませんか? さすれば悔しさはあれど、毎日毎回をリセットでき 前向きに生きられると思います。いかがでしょうか?
本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
引用・参考記事
「後悔」するのではなく「諦め」をつける|死ぬまで“自分”であり続けるための「未来日記」|小林弘幸 - 幻冬舎plus