行動量は「情報量」に比例⁉
堀江貴文さんは著書「時間革命」で "行動量は情報量に比例する" と言われます。よく行動力という言葉を用い、"あの人は行動力がある" とか "行動力が成否を分ける" などと言われます。この「~力」全般に対し、堀江さんは思考停止の産物とバッサリ切り捨てます。
どういうことか?
「〇〇力」というのは、人が後付けで考えただけのフィクションであり、こと「行動力」についてはシンプルに情報量に比例するというのです。行動しないのはただ単純に情報量が少ないだけだと。
しかしあなたはこんなことを聞いたことはありませんか?
「現代は情報過多の時代。情報が多すぎて逆に動けなくなる」
上記の言い分も堀江さんはバッサリ切り捨てます。
「都市伝説の類で、そういう人に限ってたいした情報を持っていない、中途半端な情報に満足していることが行動できない原因だ」
堀江さんはいつもの調子で続けます。
「ぼくに飛びぬけたところがあるとすれば、それは圧倒的な量の情報に触れて、それを処理していることだろう。ふつうの人と比べると、ぼくが浴びている情報シャワーの量は桁が1つか2つ分くらいは違うと思う」
あなたは行動量と情報量の関係について、いかが思われますか?
私は「動機付け」が大きく関係していると思います。最近観た動画でも「動機付け」を行動力と結び付ける人がいました。その人はお金を稼ぐ目的が明確にあってそれが親孝行であると。理由は若いころにヤンチャして経済的にも精神的にも迷惑をかけたため。さんざん迷惑をかけた分、これからは頻繁に実家に顔を出し、困ったときは経済的にも精神的にも助けてあげたい、そう語っていました。その人は外国に在住しているため、日本の実家に顔を出すにもそれなりの費用がかかります。
成功者には感動屋が多いという話はよく聞きます。そのわけは一つ一つの感動がモチベーションに転化するからでしょう。逆に言えば、モチベーションと化するために感動を得ている、ともとれます。またコンプレックスをバネにしてのし上がるというケースも昔ほどではないにしろ、耳にします。両者に共通することは何かしら心を強烈に突き動かされていることです。
あなたが今日、友達に公園の便所掃除をするボランティアがあるから、いっしょにやらないか?と誘われたとします。あなたは正直便所掃除が好きではない想定です。おそらく何かしら理由をつけて断ると思います。しかしそのボランティア団体は裕福のため、5時間の掃除で日給10万円を支払うと言います。もはやボランティアではありませんが、あなたが金欠でしたらおそらく参加するでしょう。金欠度合いによっては喜んで、勤しんで参加するはずです。
「動機付け」の意味はおわかりいただけましたか?
堀江さんも自分で言われますが、興味のない分野はとんと興味を示しません。動機の中身は人それぞれ違います。先の便所掃除でも、ある種のお金持ちなどは参加しないでしょう。
大事なことは人は人、自分は自分というスタンスで自分の欲に素直になること。これに尽きます。不純な動機でも、逆に不純であればあるほど行動力は漲ります。動機は人に言うものではない以上、内心に煮えたぎらせればいいだけです。
私の行動力(行動量)についての考えはシンプルです。力んだり肩ひじ張るものではなく、逆に自分の欲に素直になる、人様(ひとさま)の借り物の動機を捨て、自分だけの動機を大事にし、動機のままに自分を突き動かす、そんな感じです。
そうすれば行動力(行動量)は勝手に付いてくるでしょう。力んで自分を動かそうとすること自体、反自然的です。力まずとも勝手に突き動かされてしまう、それが自然で、それを可能とするのが「素直」です。
「行動量は情報量に比例する」という堀江さんの論はごもっともですが、そもそも堀江さん自身が自分の欲に素直に生きるところから その論は成り立っていると考えます。だれかれ欲の源泉は違います。人に惑わされず、自分の欲の源泉に立ち返り、欲に素直に生きることを誇りに思いましょう。さすれば勝手に情報収集し、勝手に行動し、勝手に実現にこぎつける自分を確認するはずです。それがきっと自然な姿なのだと思います。
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
引用・参考文献