キリスト教「許す」教え
なぜ人を許せる人と許せない人がいるのでしょうか。そこには許せる技術のようなものは存在しないのでしょうか。
昨日私は、作家でキリスト教者の佐藤優さんが、選りすぐりの聖書の名言を5つ紹介されている記事を読みました。その中で特に勉強になった教えがありますので紹介します。まず聖書の言葉から。
「ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイによる福音書18.21-22)」
なぜキリストは7回の70倍も許せと諭したのか?
「それは神は人間を何度も許すから」です。神がいることが前提ですが、神を自然と置き替えてもいいでしょう、人間が罪を犯しても、神が人間にバツを与えることはありません。例えばデスノートみたいに、心臓麻痺で急死させるといった行為はされません。何度も何度も・・許します。
「寛大」といったらその通りですが、神が寛大なら人間もそれを見習い寛大になるべき・・というのがキリストの教えです。きれいごとでしょうか?
佐藤さんの解説を読めば、比較的現実味を帯び、心に触れてくると思います。
「誰でも人生のなかで、人に迷惑をかけたり、人を不愉快にさせたり、人を傷つけたりしているはずです。自分でそれとは気づかずに、人に迷惑をかけていることもあるでしょう。それでもその多くは、許されてきました。そうやって、みんなから許されて、いまの自分があると考える。そうすると今度は、自分だけが他人の失敗や失礼を許さない、などということは道理に合いません。自分が許されてきたように、他人も許してあげましょう。」
おっしゃる通りです。キリスト教に関係なく、「人としての道理」かもしれませんが、なかなかそれらの考えが"瞬間"に浮かびません。ですから日頃から気に留めて、小さな許しの実践をする中で覚えていくことが大切に思います。
確かに私たちは、普段何気に言った言葉が人を傷つけることはままあります。しかし相手がそれを寛容に受け止め表情に出されなかったら?・・・ 私たちはその人を傷つけたことを知れません。
そのような小さな業(ごう)が積もり積もれば、もしかしたら大きな厄災として自分に返るかもしれません。この世はそのようなしくみになっているかもしれません。もちろん、小さな業(ごう)に、小さな報いで返るときもあるでしょう。
いずれにしても、不幸やストレスは「許せない人」から訪れることは間違いなく、裏を返せば許せるようになれば、幸福や感謝が訪れるということになります。
これまでなかなか人や環境、社会を許せなかった人は、ぜひ上記の佐藤さんの解説を噛みしめていただくことをお勧めします。知らず知らず人は他人を傷つけ、その中身は言葉や表情にとどまらず、行いや姿勢、見た目や態度だってあります。「お金持ち」というだけでやっかみの対象になるくらいですから。
「誰でも人生のなかで、人に迷惑をかけたり、人を不愉快にさせたり、人を傷つけたりしているはずです。自分でそれとは気づかずに、人に迷惑をかけていることもあるでしょう。それでもその多くは、許されてきました。そうやって、みんなから許されて、いまの自分があると考える。そうすると今度は、自分だけが他人の失敗や失礼を許さない、などということは道理に合いません。自分が許されてきたように、他人も許してあげましょう。」
キリスト教「許す」教え
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引用・参考記事