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不幸とは"気がかり"である

「不幸とは"気がかり"である」

 

そんな説がこの世にはあるそうです。作家 橘玲さんが著書「人生は攻略できる」で紹介されます。

 

どういうことでしょうか?

 

「金欠病」がいい例です。お金に困窮すると、お金のことばかりが気になり、その他の楽しいことやワクワクすることに目がいかなくなります。この状態を「不幸」と定義する、ということです。

 

金欠病以外にも、さまざまな状態を含みます。例えば今にも餓死しそうな人がいた場合、その人は「食欲を満たすこと」以外は、何も考えられない状態、それも「不幸」でしょう。

 

米国の心理学者A・マズローが唱えた欲求階層説はあなたもご存じと思います。

 

1. 生理的欲求

2. 安全の欲求

3. 社会的欲求

4. 承認欲求

5. 自己実現の欲求

 

1の「生理的欲求」が満たされなければ、2の「安全の欲求」には行きづらく、1で躓(つまづけ)ば、ずっと1の範疇に思考幅(想像幅)も留まってしまう警鐘です。

 

そのため橘さんはお金を稼ぐことの大切さを、お金の「気がかり」から解放させる意味で説かれます。

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空腹によって鳴り始めた非常ベルを止めるには、なにか食べるしかない。同じようにお金がなくて非常ベルが鳴っているなら、お金を手に入れるしかない。「清貧」とかの精神論はなんの意味もないのだ。

 

そしてこれが、貧しいひとを社会が支援する正当な理由になっている。

 

頭のなかでがんがん非常ベルが鳴っているひとに対して、「なんでこんなことになったの!」と説教したってまったく効果がない。冷静になってどうすればいいか考えるためには、まずは非常ベルを止めてあげないといけないのだ。━ これは、餓死しかけている人に立派な健康法を説いても仕方ないのと同じだ。

 

この章の最初に、「お金が大事なのは、君をお金から自由にしてくれるからだ」と書いた。その意味がわかってもらえただろうか。

(同書より抜粋)

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大事なことは"気がかり"によって視野狭窄に陥ること、また挑戦心が削がれることだと思います。

 

"気がかり"という名の「木」にとらわれ、「森」が見えなくなる、まさに「木を見て森を見ず」の状態、それが視野狭窄。これは打開の糸口が示されても、それに焦点を当てられないことを指し、身近な人からの有益な助言やアドバイスもスポイルすることにつながります。

 

また"気がかり"が長引けばコンプレックス化し、それが足かせで、対人関係が消極的になります。さまざまな出会いを避けたり、誘いを断ることも多くなるかもしれません。これが挑戦心が削がれる状態。

 

どちらも幸福への切符を捨てる行為に違いありません。

 

"気がかり"が生じたときほど、"何が解決の糸口になるかわからない" と挑戦心を燃やし、目線を上に、前を向き、心を広げて行動を惜しまないことが大切に思います。積極的に人に会い、新鮮な空気を取り込むこと。その最中(さなか)に、ブレイクスルーのきっかけが生じる気がします。

 

また「不幸とは気がかりである」の裏返しも考えてみます。裏返すとこうなります。

 

「幸福とは"気がかり"のない状態である」

 

多かれ少なかれ、誰しも"気がかり"の一つや二つはあると思います。それを明確化し、それを解決することがイコール幸福なのだと定義すれば、解決へのモチベーションは上がるのかもしれません。

 

またほかの人が"気がかり"になっていそうな対象を、今のあなたが"気がかり"でないのなら、それは先天的なことでも、予防や準備を施した結果(後天的)でも、幸福を享受できている感覚(感謝)を覚えていもいいのかもしれません。

 

橘さんは「お金が大事なのは、君をお金から自由にしてくれるからだ」と言いました。お金を持つことによって、お金で解決できることが解決できるようになるため、お金で解決できる"気がかり"から解放されることを意味します。

 

鼻が低いことにコンプレックスを持った人も、鼻を整形すれば、とたんに"気がかり"は逆に"自信"へと変貌を遂げ、どんどん対人関係を明るくするかもしれません。しかし整形手術を受けられるお金がなければ、ずっとコンプレックスから抜け出せず、対人関係も消極的なまま。この両者の人生の質は、年数を経るごとに雲泥の差を分かちそうです。

 

鼻の低さを"気がかり"に思わなくなれば、即幸福か、と問われれば、人にもよりますが、先ほどの裏返しで言えば、「幸福」と言えるでしょう。なぜなら当人は鼻の低さを経験した過去が裏打ちとしてあるからです。もともと鼻の低さを"気がかり"に思わなかった人とはわけが違います。

 

つまりは"気がかり"を克服(解決)できるかどうかが、まず大事ですが、克服(解決)できる対象であるのなら、それはすでにその時点で幸福の種を潜ませると考えて相違ありません。その幸福の芽を開花させられるかどうか、それはその対象ときちんと向き合い、地道な取り組みをコツコツと継続できるかどうかにかかります。

 

克服(解決)できそうにないのなら、私は「長所進展の法則」をお勧めします。それはあなたの長所をどんどん進展させることで、"気がかり"(短所)を相対的に小さくすることです。最近 自身が経営するお店の閉店を発表したホスト会の帝王こと、ローランド氏は、絵を描くのが苦手だそうですが、正直ローランドに絵の上手さを求める人はほとんどいないでしょう。絵などどうでもいいと思わせるだけの長所をローランド氏は進展させてきたということ。

 

もちろん、絵描きなどは、"気がかり"の対象でないことは承知の上ですが、このように長所が秀でれば、短所が相対的に引っ込むというのは、経営コンサルの常套手段で、これは個人でもまったく当てはまると考えます。

 

ですので"気がかり"が解決できるか否か、まずはそこを問い、解決できないなら、それを"どうでもいい"状態にまで追い込むべく、長所を精一杯延ばすことが、"気がかり"の克服(解決)イコール"幸福"の享受のパスポートのように思います。

 

最後にこの世は資本主義社会。きれいごとを並べてもお金で解決できることは多々あります。あなたの"気がかり"がお金で解決できるなら、どんどん解決をし、清々しい状態で、今日を明日を迎えられることをお祈りします。なぜなら今日・明日という日は有限だからです。いつか来なくなる唯一の挑戦対象だからです。後悔は挑戦しなかったことに起因します。(無論私も毎日"気がかり"と向き合い、克服(解決)の途上にあることは記しておきます)

 

「不幸とは"気がかり"である」

      ║

「幸福とは"気がかり"のない状態である」

 

あなたはいかがお感じになりますか?

 

本日も最後まで読みいただきありがとうござました。

 

 

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