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「フォーカシング・イリュージョン」

団塊の世代が特に傾向として強いように思います。それが「フォーカシング・イルージョン」。横文字ですが、日本語に直せば"条件が整わないと幸せになれない"という考え方を指します。

 

例えば

・結婚しなければ幸せになれない

・有名大卒でないと、会社員としてキャリアが積めない

・会社員は出世しなければ幸せになれない

・アクティブなアウトドア派でないとモテない

などです。

 

このように"ある一定の条件下に自分を置けたときに、幸せは自分の心に到来する"という思い込み、これを「フォーカシング・イリュージョン」と呼びます。フォーカシングは"フォーカス"でお馴染みの"焦点を当てる"こと。イリュージョンは"幻想や錯覚"を意味します。

 

例えば山登りで頂上に登ってその景色を見ることだけが、山登りの幸せと思ってしまうと、実際に頂上に登り、頂上からの景色がイマイチだった場合は山登りのすべてがイマイチとなってしまいます。

 

しかし山登りそのものに幸せをフォーカスすれば、都度都度の休憩時間や登っている最中にも特定の話題やゲームでそれを楽しめるかもしれません。

 

最近の科学では、休憩時間は疲れる前に取ることが"休憩対効果"を最大化すると言われます。疲れてから休憩すると、疲れを取り除くのにかなりの時間を要するのと、実際に時間を使って疲れを取ったとしても、業務(作業)再開時にまた多大なエネルギーを要するため、再開時にまた疲れを引き起こす要因を作るという考えです。

 

ということは、集中力も15分~60分が限度と言われますから、長くても60分経ったら休憩を取ることの方が、その後のことを考えれば、トータルパフォーマンスは最大化できるということになります。

 

山登りの話しに戻します。

 

山登りも地点地点で休憩を取り、一つの地点までを一つの幸せとしてフォーカスすれば、プロセスが幾重にもさまざまな幸せで彩れることとなり、頂上の景色に幸せの有無を集中させずに済みます。

 

どこか投資に似ていませんか?

 

一つの銘柄に集中すれば、もはや博打です。その銘柄が上がれば幸せかもしれませんが、同時に下がれば不幸となります。

 

「フォーカシング・イリュージョン」はある一定の条件を据えて、その条件をクリアすれば幸せ、クリアしなければ不幸とするため、余裕がもてません。しかし余裕の中に幸せの考案や人との協調(協力)も生まれると考えれば、自分で自分を苦しめている状態で、視野狭窄、幸せの本質を見誤っていると言えます。

 

ただしここで誤解してほしくない点があります。

 

それは山登りで言えば「頂上の景色」にフォーカスすること自体は、何も問題はないという点です。誰しもそうでしょう。「フォーカシング・イリュージョン」の問題点は、山登りで言うと、「頂上の景色」以外を軽視する点にあります。

 

「頂上の景色」が大事なら、なおさら、頂上までの地点地点も同様に大事にすべし、というのが最近の科学的なアプローチです。

 

結婚も高学歴も出世もけっこうです。おおいに目指していただきたいと思います。しかしそれを目指す過程においても、いくつも幸せを摘み取れる場面場面があるのに、自ら目を閉じそれを摘み取らない状態(フォーカシング・イリュージョン)は、結婚や高学歴、出世が達成できなかったときは、目も当てられない過程となります。

 

極めつけは、過程の場面場面を大事にする行為は、最終目標(結婚・高学歴・出世)をより早めたり、より可能とする要因になりえるということです。先の休憩の取り方ではないですが、過程の重視こそが、実は最終目標への最短距離を可能とします。

 

また「フォーカシング・イリュージョン」は目に見える優劣を競うイメージがあります。ゼロサムゲームのように限られたパイを奪い合うイメージです。感情で言えば”勝利感"でしょうか。

 

しかし幸福感は"勝利感"だけに限りません。それ以外の幸福感はさまざまあり、そのさまざまは過程にこそ散りばめられ、過程でしか得られない感情です。

 

結婚や高学歴、出世を達成した後にも、連綿と人生は続き、その連綿の途上においても幸せを感じられる人は、「過程(プロセス)を味わう人間性が備わっている人だと私は考えます。

 

いろいろと書きましたが、「フォーカシング・イリュージョン」、あなたはいかがお感じになりますか?

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。