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「明日」はない(漫画・カイジ)

福本伸行さんが描かれた漫画「賭博破戒録カイジ(以下カイジ)が大ヒットし、「カイジ」に関連するさまざまな商品がこの数年で生み出されました。その一つに映画があります。2020年7月に上映開始した「カイジ・ファイナルゲーム」のDVD版が新作でレンタルされていたため、久しぶりにカイジワールドに触れてみようと、先日に借りて観てみました。

 

本日はその内容の感想ではなく、少し前に当ブログで「継続より一日」という記事をお送りしたため、その第2弾を漫画「カイジ」を用いてお話してみようと思います。

 

漫画「カイジ」ではこんな名言が出てきます。

 

明日からがんばるんじゃない…
今日…今日だけがんばるんだっ…!
今日をがんばった者…
今日をがんばり始めた者にのみ…
明日が来るんだよ…!

 

漫画「賭博破戒録カイジ」の第1巻に収録された、大槻班長のセリフです。地下の強制労働所に収容されたカイジは初給料を受け取り、班長からおごってもらった缶ビールと安い柿ピーでストレスの解消と、地上へ出ることへの決意を新たにします。

 

しかし大槻班長はそれを許しません。"安い柿ピーで自分をごまかすからリバウンドが来るんだ" "本当はホッカホカの焼き鳥が欲しいんだろ?自分をごまかさず、欲しいものにありついてこそストレスが解消され、スッキリとした明日を迎えられるのだ"とカイジを誘惑します。

 

カイジは見事にその話術に屈します。結局欲望のままにビールに焼き鳥にありつき、借金を背負うまでになります。

 

カイジの誘惑に成功した大槻班長は、一方では先の言葉を心でつぶやきます。これは相当に性悪の沙汰ですが、このやりとりが私たちの現実にも少なからず当てはまると読者の心に刺さり、この1シーンはいろいろなところで引用されています。

 

結局カイジは大槻班長の賭博のイカサマを破り、大勝を果たしますが、イカサマを見破れなければ、ただの敗者で、人生の落後者となっていました。

 

いったいぜんたい、私たちはカイジのような誘惑を目の前に、どのように凌いだらいいのでしょうか?

 

それは大槻班長の言葉にすべてが表れています。

「明日はない」

 

明日は永遠にやってこないと思うことでしか、誘惑を払拭できません。なぜなら誘惑を払拭できるだけの目標や目的、希望を心に燃え滾らせている人など本当にごく少数だと思うからです。そのような人は誘惑を前にしても揺れることはありません。

 

しかしほとんどの人は誘惑を前にすれば心は揺れ、明日に実行を先延ばしします。もちろん私もその一人です。ですから貯金でも「天引き貯金」しか実行策はないと思いますし、誘惑の場所にそもそも近づかないことを自分に課します。目の前にしたら負けることはわかっているからです。

 

つまりは誘惑を目にしたら終わりなわけなので、誘惑に自分を近づけないことがまずあって、どうしても(今回のカイジのようにビールに焼き鳥を)目にしてしまうのなら、「明日はぜったいに、一生涯来ない」と腹をくくり、自分への忍耐・辛抱・我慢を"良し"とするのです。自分への忍耐・辛抱・我慢こそが、人間の生きる喜び(価値)と、幸福の価値を転換させるのです。

 

なぜなら自分に不足を背負わせた分だけ、自分の明日(未来)は大きくなったわけなので、この幸福の価値の転換は成り立ちます。

 

しかし私は「明日はない」と先に申しました。明日(未来)が大きくなろうと、その明日(未来)が来ないなら意味がないじゃないか、そう思われたかもしれません。

 

おっしゃる通りです。しかし「昨日」はあります。

 

すなわち「今日の幸福」というのは、昨日(昨日まで)の足跡(記録)に因るのです。これは逆を考えたらわかります。カイジのように一晩で初給料を使い果たしたあとの、翌朝のテンションはいかがなものでしょうか?

 

「明日」という日は永遠に来ませんが、その「明日」のために今日をどのように生きたか?という足跡(記録)は、「昨日の足跡」という形で残ります。

 

今日の目覚めの一番色濃く残る記憶は、「昨日の足跡」です。その「昨日の足跡」が今日の実行の有効な手助けになります。なぜなら臨場感が伴うからです。実際に昨日、を通して行ったからです。"昨日できたなら、今日もできるはず"と自然と思えます。

 

しかし臨場感が伴わない「明日(未来)への希望)は、今日の誘惑を前に、雲散霧消します。誘惑がなければそれも有効ですが、誘惑を前にすれば、臨場感で圧倒的な差を付けられます。

 

「明日はない」

 

これは人生観の問題です。人生とはつまり「昨日までの足跡」のこと。今日にどのような足跡(記録)を付けるのかを人生から問われているということ

 

私たちに明日が約束されておらず、今日で死が確定されているなら話は別です。しかしほとんどの方は明日も「今日」という形で目が覚めます。それならば、今日に誘惑を我慢したツケ(代償)は、「昨日の足跡」として翌日の「今日」の手応え(幸福)になってくれます。

「明日」というのは、今日の判断や実行内容を見誤らないための「想像物」に過ぎません。

 今日の忍耐・辛抱・我慢は、必ず翌日には「昨日の足跡」としてを発揮します。それを信じることが「信念」で、信念は「勇気」を生み出します。

 

「明日」はない

 

あるのは(昨日の)(昨日までの)(1秒前までの)「足跡(記録)」だけ。本当の希望は「足跡(記録)」の中でしか見い出せません。私も頑張ります。あなたもいっしょに頑張りましょう!

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

過去記事

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