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「遊び」の再考1

前回の記事「自分の価値」のつづきです。

 

本日はフジテレビ系のテレビ番組「ホンマでっか!?TV」など多数のメディアで活躍する脳科学中野信子さんの著書「努力不要論」をもとにお届けします。

 

前回の記事で私は、日本における努力信仰は明治時代に植え付けられたと申しました。また敗戦後の焼け野原から「ジャパンアズナンバーワン」と言われるまでに復興を遂げた功績を尊ぶ一方、「助け合い」の精神が薄れ、目に見える評価ばかり気にするようになったと申し上げました。

 

中野さんはこの目に見える評価を追いかけること(俗に努力)は"野蛮"と言い放ち、江戸時代に粋とされた”遊び"を取り戻す大切さを説かれます。

 

まずは、なぜ日本は明治時代に努力信仰が植え付けられたのでしょうか?

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努力信仰が日本の精神に蔓延るようになったのは、明治時代です。明治政府をつくったのは江戸の武士ではありません。薩長出身の武士たちです。江戸っ子たち都会人にバカにされてはならない、欧米列強に追いつかなければならない、という焦燥感、その圧力によって努力信仰が生じてきたのです。

中野信子著「努力不要論」より抜粋)

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ちなみにこの薩長出身の武士たちが醸成した「努力信仰」は、日清戦争日露戦争に勝利したことにより輪がかかかってしまい、のちの敗戦の原因とつくったと中野さんは言われます。

 

話しを戻すと、努力信仰が明治時代からとすると、それ以前の江戸時代に努力信仰はなかったのでしょうか?

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江戸時代は、努力信仰が尊ばれる雰囲気ではありませんでした。遊び慣れない、地方出の藩士たちが吉原に行くと「浅葱裏(あさぎうら:羽織の裏地が浅葱色の田舎武士)」と言ってバカにされたといいます。

 

吉原の例は特殊なように思われるかもしれませんが、時代全体が、むしろ「遊ぶ」ということを尊びました。遊びというのはプラスの概念であって、教養のある人や余裕のある人にしかできない、高尚で粋なものだったわけです。

 

(中略)

 

「宵越しの銭は持たない」という気風の良さにも端的に表れていますが、江戸では滅私奉公してコツコツお金を貯めて何かするということが、なんだか真面目すぎてちょっと格好悪いことだったのです。なんとなく気恥ずかしく、あまり粋なことではなかったのです。

(同書より抜粋)

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中野さんは真面目にコツコツ努力することじたいを全面否定するわけではありません。その尊さは認めつつ、その過程で失われてしまった「遊び」の豊かさ、日本人らしい感性のふくよかさが、努力を重視しすぎたあまり貧困になってしまったことを問題視されます。そのことがわかる箇所も見てみます。

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本来「遊ぶ」というのは、とても高尚なことです。

 

人間にしかできません。働くことや単純作業は機会が代替することはできますが、遊ぶというのはとても難しいことなのです。少なくとも、知性を持った存在でないとできません。

 

そうした考え方からすると、「生きていくために必要なことしかしない」というのは、じつに貧困なことではないでしょうか。

 

もちろん、努力というのは生きていくために必要なものですが、必要な部分以外にもリソースを割けるということが、豊かであり、洗練されている証拠です。文化、芸術、形而上のもの、人間らしい部分がリッチであるというのはそういうことです。

 

(同書より抜粋)

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中野さんは脳科学者ですから、脳科学の観点からも「遊び」の重要性に触れます。

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人間の脳は、機械のようにシンプルで合理的にはできていない。努力以外の遊びの部分というのは、脳にとってのエサともいえるものです。

 

1998年に、大人の脳の中でも新しく神経細胞が生まれることがわかったのですが、せっかく新生した神経細胞も、新しい刺激が入らないと死んでいってしまうのです。新しい刺激というのはヒトが楽しいと感じられること、つまり遊びのことです。

 

遊びは文字どおり、脳の栄養源といってもいい。ヒトは、努力よりずっと、遊びが必要な生き物なのです。

 

(同書より抜粋)

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中野さんは努力を"野蛮"と言い放ち、その努力の定義は「役に立つ」「儲かる」とされます。ビジネス一直線のパーソンや、損得だけで物事を判断する方に警鐘を鳴らします。

 

なぜか? 

 

それはビジネスやお金儲け、仕事に不向きな方の居場所がどんどんなくなっているからです。この本(努力不要論)は2014年が初版ですので、それを含んでお読みください。

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現在の日本では「働いて、役に立つ人」と「働かず、役に立たない人」との二項対立が生まれています。たとえば、「ゆとり」「さとり」「引きこもり」「ニート」など、なんでもかまいませんが、「役に立たない人」に分類される人たちは、社会から排除されるのです。

 

さらに「電車の中で泣きわめく赤ちゃん」「妊婦」「子連れの母」「育休を取る父親」も「役に立たない人」にカテゴライズされています。「不景気」という印籠のもと、「役に立たない人」が排除される傾向は年々強くなっているように感じます。

 

これでは、子供を産む人は減る一方で、ますます少子化は進んでいくでしょう。

 

私は泣き叫ぶ赤ちゃんや騒々しい子供たちや、妊娠しているお母さんたちと同様、ニートや引きこもりが、日本のリソースなのではないかと考えることがあります。即効性のある、すぐ結果が目に見える活動のためのリソースではありません。そんなことは働くのが好きな人たちか、あるいは機械やロボットに任せておけばいい。

 

ヒマで、あまり生産しているようには見えない人たちの視線や思考は、目まぐるしく動く社会の表層からは少し離れたところにあり、じつはそこに文化や豊かさや、教養の深さ、未来の社会に資するいろいろな物事のヒントがある。彼らの考えていること、見ているものを、知的生産物として再評価してみると、高い価値を持っているのです。

(同書より抜粋)

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知的生産物の代表的な例として「クールジャパン」を挙げています。もともとは社会のメインストリームではない"役に立たない"種族のオタクやニート、引きこもりが生み出した文化。それがクールであるとして世界の注目を浴び、政府が後追いする形で収益化に動き出していることを紹介されます。

 

さて、ここまで中野さんの「努力不要論」を見てきました。あなたはいかがお感じになりましたでしょうか?

 

私的には、結局は仕事が好きでワーカホリックな人は、それはそれでいいのだと思います。たとえそれが中野さんからみて"野蛮"と映ろうとも、本人が好き納得済みなら問題ないでしょう。

 

問題なのは、本当は仕事以外のいわゆる"遊び"に興じたいのに、それができていない人です。あなたがもしそうであるなら、ぜひ本記事を参考に、"遊び"を高尚なことと位置づけ再考していただければと思います。

 

また次回も同じテーマでお届けします。

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

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